[Sound of Silence]
SAMPLE

 

「――……っ!」
 と、そこで目が覚めた。跳ね起きて大きく息をつく。真木は額に手をやった。汗で掌が濡れる。
 大丈夫、これは夢だ。
 自分にそんな事は起こらなかった。夢の少年は自分ではない。
 あの少年は……彼は。
 そこまで思考が回ったところで慌てて傍らを見やる。そこには目を大きく見開いたまま微動だにしない兵部の姿があった。
「少佐、」
 咄嗟にその肩を掴んで揺らしていた。目は開いているが彼の意識はまだ夢の中だ。真木が見た夢のその続きを彼は見ている。
 ……自分が撃たれるその瞬間までを。
「しょう、さ」
 ――ガシャンと音がしてサイドテーブルの上のグラスが割れた。だが破片は重力の支配を受けず、それ自身に意思があるかのように部屋中を飛び回る。拍子にちりっとした鋭い痛みを背中に感じたがそれどころではない。
「少佐、……少佐、目を覚ましてください!」
「――……っ、」
 何度か肩を揺らして、それでも兵部からの反応はない。咄嗟に強く頬を叩く。
 ……と、もう一度破壊音が響いた。
 今度は天井の蛍光灯だ。
 頭上から降ってくる細かい破片に真木は能力を発動させた。元から長い髪が更に伸び、翼の形態を作る。それを大きく広げれば自分の下に引き込んだ身体を破片から守るくらいの事は可能だ。
 と、不意に空気の圧が変わった。ガラス同士が当たるカシャという微かな音とともに風が瞬間だけ渦巻き、そしてすぐに消える。
 身構えていたもののいっこうにガラスが降ってこない理由に気づいた真木は腕の中へと眼差しを向けた。
「少佐、大丈夫ですか?」
「……ごめん、ちょっと混乱しちゃったみたいだ」
 思ったよりもしっかりした声が返ったことにほっとする。
「問題はありません」
 すぐ傍にいたために兵部の無意識の精神感応能力でその夢が真木にも伝わってしまったのだ。夢の共有はさすがに初めてだが、夢に魘される姿を目前にする事は何度もあるから、こんな事態はそう驚く事でもない。
「僕は、……何か言っていた?」
「いいえ、何も。……魘されていたので起こしただけです」
 探るような視線に真木は首を横に振った。兵部には接触精神感応能力もある。その気になれば彼はこちらの思考など容易に見通す事が出来るから今のが嘘だなんてすぐに判る。だが今はその気力もないらしく、兵部は真木の腕の中で懸命に大きく呼吸を繰り返しているだけだ。
「……夢だって判ってるはずなのにな」
 ぽつりと呟かれる。
「どうして途中で抜け出せないんだろう」
「それは……」
 言いかけて、だが途中で真木は口を噤んだ。
 初めて共有した夢の中で、少年はとても幸せそうだった。
 敵の戦闘機にも人間が乗っているのだという事なんか考えもつかないほどに無造作にそれを撃ち落とし、そして小さな手をいっぱいに広げて自分の戦艦を守った。
 無邪気に懸命に与えられた任務をこなし、そして褒められるのを何より嬉しく感じて頬を紅潮させて。
 夢の中の少年はこの上もないほど幸せだった。
 だから夢から抜け出せないのだ。かつてその手にあったささやかな幸せを自ら手放すことができないから。
 だが兵部にそんな推測を告げる事は出来なくて、真木は代わりに首を巡らせた。
「……部屋を変えましょうか」
 グラスだけならともかく、蛍光灯までが破裂してしまった部屋はガラスの破片でいっぱいで、このままではおちおち寝られない。
 そう言うと真木は返事を待たずに兵部を抱き上げた。
 兵部を支えるのに両手を使ってしまっているが、真木の能力は結構便利でもある。髪が一房伸びて変形して出来た手がノブを回してドアを開け、そして閉めてくれる。
 騒ぎは他の者には伝わらなかったらしく、深夜の廊下には誰もいない。その事に真木はそっと安堵の吐息をついた。
 下は紺のパジャマで上はランニングシャツ姿のでかい男が緩く浴衣を羽織っただけの少年を横抱きにしている姿というのは、あまり他人には見られたくない構図だ。しかももし誰かに見られたら部屋換えの原因を説明しなければならないのも困る部分だ。
 真っ暗だがよく知っている廊下を進み、階段を一つ降りる。
 パンドラメンバー用の私室の並ぶ階に戻ってきて、真木は一度足を止めた。腕の中へそっと視線を落とす。
「少々狭いですが、俺の部屋でよろしいですか」
「……うん」
 それ以外に選択肢はないのだが、一応の伺いに小さく首肯が戻った事に真木はそのまま廊下を真っ直ぐ進んだ。小さな子供を入れれば数十人が家族のように暮らすパンドラの居住棟の奥の方に真木の部屋がある。幹部の割に部屋が大きくないのは、子供の頃に与えられた部屋をそのまま継続して使っているせいだ。本当は体格と責任に見合った部屋に変えたいのだが、組織が大きくなるにつれて居住スペース自体が足りなくなってきたため、いつまでたっても引っ越し先がないのだ。
 その狭い部屋に戻って、一応周囲を見回してからドアを開ける。
 個人用のノートパソコンと山ほどの資料を置いたデスクとベッドだけは大きめのものを使っているので、ほとんどそれだけで部屋がいっぱいの印象だ。几帳面な性格だからいいが、もし真木が整理整頓が苦手だったら大変な状況になっているはずだ。
「何か飲みますか」
「……水」
 細い身体をベッドへと丁寧に下ろして座らせ、倒れこまないのを確認してからそっと手を離す。真木は身を捻ると部屋の一角にあるミニ冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を引き出した。
 栓を開けて差し出すと白い手が瓶を受け取る。だがその手はまだ小さく震えている。
「…………」
 それでも、冷たい水を数口を飲んで少しは落ち着いていたらしい。瓶から口を離してふぅと大きく吐息をつく兵部へ真木は手を伸ばした。水で濡れた口元を親指でそっと拭う。
「大丈夫ですか」
「……あぁ」
 頷いた後、ふと何かに気づいたらしい兵部が柳眉を顰めた。
「真木、お前の背中」
「……あー、その、…」
 兵部の視線を辿って首を大きく捻るとシャツの背中に赤いものが見えた。おそらくガラスの破片が飛んだのだろう。大して痛みはないからかすり傷程度だ。とりあえずランニングを脱ぎ、心当たりの場所を触る。案の定、大して出血もないただのかすり傷だ。
「それ、僕のせいだね」
「あなたは悪い夢をみていただけですよ」
 大丈夫です、と言い掛けたところで急に身体が勝手に動いた。
「ちょ……少佐、」
 兵部へ背中を向ける体勢で強引に屈まされて真木はもがいた。自分では見えないが大した傷ではないのは間違いない。このくらいの事で罪悪感など感じて欲しくない。
 だが、そう口にして言う前に真木の背中に冷たい手が当てられた。感触はすぐにじわりと温かいものに変わる。
「治しておいたよ」
「こんなもの、別に構わないんですから」
 数秒後、軽い口調で告げられて逆に眉根が寄る。
「俺なんかにあなたの能力(ちから)を使わないでください」
 たかがこれだけのために兵部がその能力を使うことはないのに。
「おいおい、僕にだって人並みの感情はあるんだぜ」
 対して兵部は口端を引き上げて笑ってみせた。多少強張っていても笑みは笑みだ。ようやく持ち直してきたらしいと判ってこっそり安堵する。
「部下に怪我をさせておいて平気でいられるほど図太くないよ」
「……その最後の部分に関しては甚だ疑問がありますが」
「言ったなこら」
 と、今度は髪が一房引っ張られた。念動力ではなく兵部の手によるもので、ぐいぐいと遠慮なしに引っ張られて真木はとうとうベッドに座る兵部の前の床に膝を付かせられた。
「生意気言う子にはお仕置きだな」
「はいはい、なんでもどうぞ」
 宙に浮いている時以外では珍しい見下ろす姿勢でのそんな言葉にも、今更驚きも怯えもない。いつも気紛れで我が儘な無理難題を押し付けられている身には今更だ。諦めの境地で何を言いつけられるのかと言葉を待てば。
「真木、おいで」
「しょ、うさ?」
 いつになく蠱惑的な笑みを浮かべた兵部の両手に顔を包まれて引き寄せられ真木は戸惑いに瞬きした。その視界の中で兵部の瞼がゆっくりと落とされ、近すぎる視点につい目を瞑ったところで唇を塞がれる。
「……ノリが悪いぞ、おまえ」
 しばらくして一度口付けを解いた兵部がそんな事を言って来たのは、合わせた唇の隙間から伸ばした舌でぺろりと真木の唇を舐めて誘う兵部に対して何の反応もしなかったからだ。
「僕から誘ってるのに反応しないなんて」
「つい先ほどまで何をやっていたかお忘れですか」
 不満そうな声に真木はやれやれと唸った。
 一緒のベッドで寝ていた理由はそういった行為の後だから、というのに他ならない。セックスの開始はいつも兵部に決定権と主導権があって、今日はたまたま兵部の気が向いたのだ。
「何回したっけ?……二回?三回かな?」
「あなたはお疲れのはずですよ」
 実際、今夜も疲れきって指一本動かせない兵部を抱えて風呂へ入れる羽目になっていたのだから。
 真木は更に続けた。
「それにここは、少佐の部屋ほど防音がよくありません」
 個人の部屋は全てESP遮断処理がされているから、誰かに透視されたり瞬間移動で急にやって来られる危険はない。だが、防音はまた別だ。
「そんなの、僕が遮断してやるから」
「少佐」
 なぜそんな無茶ばかり言うのかと言い掛けたところでふと兵部の白い顔が近付いて、そして今度は真木の肩口に埋められた。
「……だってこのままじゃ、眠れない」
 そして零される低く苦しげな響きの呟きに、やんわりと身体を離そうとした真木の手が止まった。
 おそらくそれに気づいたのだろう。だから、と兵部が今度はうって変わって軽い調子で言葉を続ける。
「もう一度眠れるように、協力しろよ」
「……承知しました」
 いつもと同じ展開に真木は溜め息を押し殺して立ち上がった。