Killing Me Softly With Your Voice

 と、兵部の寝転がるソファの端に座った葉がニッと悪戯っぽい顔をして、そうして兵部を見やるのが見えた。
「ねぇボス、ボスって関東大震災って知ってるの……いててっ」
 すぐに声に悲鳴が混じった。もちろんそうさせてるのは兵部だ。
「葉、君は小学生からやり直してきた方がいいんじゃないか?」
 だらりと横になっていたのを身を起こし、見えない力で葉の耳を引っ張っている彼は、こうしていると葉と同じどころか、それよりも年下にしか見えない。
 その外見で交わす会話がこれだからある意味すごい。
「僕は昭和生まれで、関東大震災は大正12年だってーの」
「やっぱそんなに変わんないじゃん、って、痛いって!」
 ぎゃあ、という声に兵部が勝ったとばかりの顔をする。
「思い知ったか、ガキ」
「ちぇーっ、負けるもんか、やり返し!」
 フフンと得意げに笑った兵部に、大きく膨れ面をした葉が言うなりがばりと伸し掛かる。この一年ほどでようやく兵部を抜かした身長と体格を活かしてやり返しているらしいが、もちろん兵部もおとなしく受けてる性格でもない。
「やったなこのガキ!」
「負けるかジジイ」
 そんなに大きくないソファの上を二人で転がりまわって何やら攻防を続けているのがソファの背越しにも判る。
「まったく……」
 やれやれと真木は溜め息をついた。この二人のじゃれ合いは昔からこんな感じで、誰かが止めない限りは際限なくやりあっている。遊びたい盛りの子猫のようなものだ。
「いててて!」
「ほーら手を放さないと禿げるぜ?」
 いつものように小さな勝敗がつこうとしているのを真木は会話で察しながらソファに背を向けてエスプレッソマシンへと向き直った。いつも葉が負けてばかりなのだが(残念ながら兵部は年下に譲るとか花を持たせるとかいう美徳を持ち合わせてはいない)、どちらかが飽きない限り、真木が止めたところでこのじゃれ合いはまだまだ続くのだ。
「よーし、じゃあ最終手段!」
 だが葉がそんな事を呟いた途端、珍しくも形勢が逆転した。
「うわ、こら葉っ」
 急に兵部が慌てた声になって身を捩る気配にソファが軋んだ。
「こら何す……わ、やっ、…やだ、あ、…やぁ、っん」
 初めは余裕の笑い声混じりが、後半急に上擦った事に真木は思わずコーヒーカップを落としそうになった。落下はぎりぎりで回避したものの、慌てて振り返っても部屋の隅の真木の位置からはソファの背が邪魔して二人の詳細は見えない。
「このやろっ、……あ、……や、ぁ、っく」
「ほーら、降参する?」
「よ……葉、いい加減にしろっ!」
「えーなんでー?」
 思わず怒鳴るとソファの向こうからひょいと顔が覗いた。葉だ。
「俺にまでやきもち焼く事ないじゃん、真木さん心せまーい」
「な……や、…や…っ?」
 葉の言い返しに真木は目を白黒させた。
 兵部の途切れがちの喘ぎに(少なくともそう聞こえた!)平静でいられなくなった自覚はあったが、それはそんな疚しい感情ではなくて兵部が苦しがっているのを助けたかっただけだ。
「ボスは昔っからくすぐったがりだもんねー」
「やっ、よ……葉、って、」
 ねー、と言いながらまた葉がソファの裏に引っ込む。
「脇腹とか弱いじゃん、肩甲骨んトコと、あと鎖骨の辺り」
「わ、もっや、葉っ…も、やめ……やっ、くすぐった……っ!」
 ここ、とか言いながら実践してるらしく、その度に兵部が身を捩じらせて暴れるのがソファがぎしぎしと軋む音でわかる。
「……くす、ぐ……ぁ、わっ、も……、やぁ、っぁ、あ、ぁ」
 兵部の声が聞いた響きのものに似てくる。それはこんな、他にも人の出入りするリビングなんて場所で聞くのではなく、二人きりの鍵を掛けた部屋でしか聞いてはいけない種類の甘やかな喘ぎに似ていて、真木は思わず息を詰めた。
「……あ、やめ…ぁ、…あ、あ、あ…ゃ、っ」
 葉の腕の中でもがく兵部の声が更にトーンを高く上げ、切羽詰った響きが混じっていく――その瞬間、真木の手が伸びていた。
「葉っ!」
 立つ場所は同じまま、大きく伸びた髪の『手』が葉の襟首を掴んで引き剥がしている事に一瞬後に気づいて、真木は自分の目が信じられずに数度瞬きをした。……が、確かに葉を掴んでいるのは自分の能力だ。
「何すんだよ真木さん」
 真木的にはほぼ無意識の行動に本人が愕然としているのをよそに、葉は盛大に口を尖らせている。
「あと少しでギブアップさせられたのにー」
 口調には笑いを混ぜているのに、髪と同じ赤みの強い茶色の虹彩が冷えた色でふと真木を見る。そして葉が言うには。
「それともなに、ボスがこんなくすぐったがりなのまで真木さんの責任の範疇なの?」
「なっ……、」
 その言葉と視線にはっとした。
 夜中の間に兵部の私室から勝手に移動させられていた桃太郎と、いつもより早起きで気怠そうにソファに座っていた兵部を合わせて考えれば、葉が邪推しても仕方ないのかもしれない。
 本当ならちゃんとそう説明すればいいはずだ。しかし、たまたま昨夜は何もなかったにしても一緒に寝たのは事実だし身体の関係は確かにあるから、葉の推測を昨夜の件だけで否定するのはフェアではない。そこまでは判るが、静かに怒っているらしいように何と言えばいいのかが判らない。
「こーら、やきもち焼いてるのは君だろ」
 と、間に割って入ったのは兵部だ。まだ葉の擽り攻撃の余韻が残っているのか、起き上がったものの多少よろよろとしてソファの背にしがみついている。笑いすぎでか目元が薄赤い。
「真木をいじめるなよ、かわいそうだろ」
 君と違って打たれ弱いんだから、とか真木にとっては聞き捨てならない事をさらりと言いながら兵部は葉を見やった。
「昨日桃太郎をそっちに押し付けたのは僕だし、真木に部屋に泊まってくように言ったのも僕。真木は付き合わされて枕と毛布になってただけだし、もしそうじゃなかったとしても、それは僕と真木との問題で、君が真木に怒るのは筋違い。違うかい?」
 兵部に真っ直ぐ見つめられて葉が一度口を尖らせ、それからふぅと小さく吐息をついてもう一度口を開く。
「……ごめんなさい」
「判ればよろしい」
 まだ多少含むところのある目をして真木をちらりと見やりつつもそれでも兵部へ向き直って素直にぺこりと頭を下げる。多少おどけた調子で応じた兵部が葉の赤みの強い髪をくしゃりとかき回した。そのままふと白い顔を子供に寄せる。
「ちゃんと謝れたからご褒美」
 と、言いながら兵部がその頬にキスをするのを目の当たりにしてしまった真木は一瞬硬直し、それから慌てて目を逸らせた。
 葉が兵部に持ってるのが子供っぽい独占欲に近いことを真木は知っている。兵部に拾われた最初の子供たちで、しかも有数の能力を持った三人であるがゆえにパンドラの幹部としての責務を負う事になったとは言え、葉は三人の中では末っ子で小さい頃は兵部にべったりだった。いまだにそのクセが抜けていないのだ。
 だからこれはその延長でしかない。ちゃんと判っている。
 そして、自分までそんな子供っぽい感情に支配されるわけにはいかない。身体の関係があろうがなかろうが、兵部はパンドラの創設者でリーダーで、メンバー全員の親なのだ。
 と自分に言い聞かせて波立つ心を抑えようとしている真木をまたちらりと見て、殊更に葉がにっこりと兵部に笑いかける。
「ねぇボス、もう一回」
 甘えた声音でもう一度頬を示す子供に兵部は弱い。
「まったく、葉は甘えっ子だな」
 口では呆れたように言いつつ兵部が溜息とともに身を屈める。
 どうせこれも真木に対する当てつけだろう。……そう思ったのが実は違うと判ったのは身を寄せてきた兵部のキスをもう一度頬に受けた葉がそのまま兵部の肩をがしりと掴んでからだ。
「な……に、」
「今度はどうしたんだい、葉?」
 思わずぎょっとする真木をよそに葉がじっと至近距離から兵部を見つめてそれから小さく頷く。
「やっぱり」
 納得したような響きで呟いた後半部分の台詞に真木は眉間にしわをきつく寄せる事となった。
「ボス熱あるんじゃん、いつから隠してたの?」

 

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