夢見るケモノ

 

  「いつも世話になってるとは思ってるんだよ?」
 慈しむような、優しい眼差しの闇色の瞳につい魅入りそうになって真木は慌てて目を逸らした。それを誤魔化すように、いいえ、と首を振り、あくまでも仕事だと強調する。
「これが俺の役目ですから」
 が、それが兵部には気に入らないらしい。
「……あーあ、見た目ばっかり大人になっちゃって」
「いやもう本当に大人ですから、」
 大仰に嘆息してみせる兵部にさすがに抗議する。真木の正確な年齢は判らないにしろ、彼に保護されてから既に十年以上が経っている。背も体格も兵部を大きく抜かしているし、兵部がバベルのあのくそ忌々しい老女に捕らわれてからは、真木があの組織を切り盛りしてきたと言っても過言ではないはずだ。
 なのに兵部の認識と来たら、いつまで経っても変わらない。面白くなさそうに据わらせた目でちらりと真木を見て。
「そうだね、ちょっと目を離した隙に、僕の許可もなしに勝手に髭まではやしちゃってさ」
 ほんとに立派な大人だよね、と兵部がフンと鼻を鳴らして言う。実際にはそう思ってないのは明らかな表情に真木は溜息をついた。
 兵部が真木を初めとする最初の三人を拾った時から彼のモットーは『自分の思う通りに好き勝手する』だった。それを身近に見て育った紅葉と葉の自由奔放さに比べたら、真木の髭なんてほんのささやかな事だと思うのに、これが兵部には気に入らないらしく、折に触れては何度も言われている。兵部の命令なら何でも受け入れる心構えはあるが、こう何度も言われればさすがに真木の中の小さな反骨心が頭をもたげてくる。こうなったら兵部にもう大人だと心から認めてもらうまでは絶対に剃らないぞ、とさえ思っている。そんな事を思っているのがばれたら、それこそ催眠を掛けてでも自分で剃り落とさせられしまいそうだが。
「……まぁ、ほんとに君ももう大人だもんね」
 今回も黙って嵐が頭上を通り過ぎるのを待てば、しばらくして飽きたらしい兵部がふぅと吐息をこぼす。
 そしてさらに間近に寄ってくるなり。
「だから、僕がいないからって寂しいって泣くなよ?」
「だ……誰がっ!」
 的外れの揶揄に真木は目を剥いた。
 そんな事はした事がない。拾われた直後の二人きりだった頃ならともかく、すぐに人数が増えた上に、その兵部が不在がちのパンドラではいつだって真木は山ほどの子供たちの世話係だった。寂しいと泣く葉を泣き止むまで背負って何時間も宥めたり、口では何も言わないものの肩が落ちている紅葉の艶やかな髪を何度も撫でて慰めた事はあっても、自分がぐずったなんて事は一度もないのに。
「お、俺はそんな事は」
「じょーだんだよ」
 思わず慌てて勢い込めばくすりと笑われた。
「……まったく、」
 どっと疲れてきた。
「さぁ、もう本当に戻ってください。こんなにしょっちゅう抜け出してるとバベルに知られたら後が大変です」
「……判ったよ」
 もう何度目かの促しが気に入らなかったのか、口を尖らせた兵部が前触れなしに消える。
「あ、……」
 あっさりと一人取り残された形になった真木は目を瞬かせた。だが彼が気紛れで唐突なのはいつもの事だ。
 バベルに囚われている、という演出をしたいのはパンドラではなく兵部の意図だから、さすがにここまでくればおとなしく帰ったのだろう。ちゃんと別れの挨拶もできなかったのは、急かした事で機嫌を損ねたからかもしれない。
「…………、」
 かき消えた残像を切なく目で追いかけ、そして諦めた真木が踵を返そうとしたその時。
 ――と、次の瞬間、消えたはずの細い身体がもう一度出現した。真木のすぐ目の前に。
「な……っ!?」
「さよならの挨拶忘れてたから」
 腕の中――と言うにも近過ぎるような、ほんの至近距離に現れた白い顔にぎょっとして背を仰け反らせた真木の首に兵部の腕が緩く回された。
「しょ……っ、」
 近すぎる距離にどうしていいか判らず、ただ凍りつく真木の視界の中で、兵部がさらに距離を寄せてきて。
「!!」
 かすめるようなキスを口端にされたと判った時にはもう綺麗な白い顔は少し離れていた。
 明らかに真木の反応を観察する視線と判っているのに思わず真っ赤になってしまえば、悪戯が成功した事に満足して目を細めた兵部がようやく腕を解き、ふわりと宙を浮いて真木から離れる。
「ちょ…、…い、今の、は」
「僕がいなくても寂しく感じないおまじないだよ」
 思わずどもってしまう真木に兵部の答えは軽い。
「おまじない……って、」
 真木は目を白黒させた。このでかくてむさい男相手におまじないだなんて、兵部はいったい何を考えてるのか。
 だが兵部はいつも通り真木の抗議を半分も聞かない。
「じゃあね、真木」
 ひらりと手を振った影が今度こそ消える。
 相変わらずな唐突さに慌てて視線を向けても、長距離を一気に跳躍したのか、兵部の姿はもうどこにも見出せない。自分は人並み以上に視力は良いのに。
「…………、」
 今度こそ本当に誰もいなくなった空の片隅で、真木はそっと右手を顔にやった。自分の口元に躊躇いがちに手を伸ばし、指が触れた瞬間、弾かれたように手を下ろすと手を拳の形に握り込んだ。指に残った感触をどこにも逃がさず、ただ手の中に閉じこめるように。
 ……本当は。
 本当は、毎度こうやって彼を急き立て、牢に帰るように促す自分こそが彼をどこにも行かせずに傍に引き止めておきたいと思っているなんて兵部に知られたら。
 そうしたらきっと、兵部は真木を傍に置かなくなるだろう。兵部の我侭は適度に窘め、それでいながら彼の意図を察してその望み通りに状況を作るのが真木の役だからだ。それができなければ幹部の三人の中では一番年上で一番長い付き合いゆえの副官としての立場さえなくしてしまう。
 だから、自分の役割はきちんとこなさなければ。
 そう自分を戒める気持ちとは別に、もうここには自分一人しかいないから、少しだけ正直になってしまう。
「あいにくですが少佐、」
 真木は低く小さく呟いた。
 腕の中に飛び込むように瞬間移動してきて、まるで抱きつくかのように身を寄せてきた兵部の身体に危うく手を回してしまうところだった。
 行かないでと引き止める役は他の連中に任せているはずなのに、兵部が宥めるようにキスをくれるのは真木だなんて、間違っているのに。
「……全然効いてませんよ」
 ぼそりと呟いて、そうしてようやく真木はイーストエデンに背を向けた。
 背中の半分ほどを覆う髪を更に伸ばし、そうして翼の形に広げる。念動能力系の合成能力者である真木にとってはこの形で空を飛ぶのが一番やりやすいのだ。
 心の中にまだいる半泣きの子供を振り払うように、真木は一際大きく翼を羽ばたかせた。
 これでしばらくは兵部は戻ってこないだろう。その間のパンドラの舵取りを任されている身には、親と離れたからといって感傷に浸っている時間などないのだ。
 と、そう何度も自分に言い聞かせて。
 明日の朝食の献立を懸命に考えつつ真木は高度をとった。

 

 

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