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 何かに引き寄せられるように意識が浮かび――目が覚めた。
 ずいぶんと長く眠っていたのか、やけに腫れぼったく重い瞼を引き開けて、だが周囲の光景は見知ったものではなかった。
 ……ここはどこだ?
 ぼんやりと考える。
 目だけを動かしても見えるのは薄汚いコンクリート製の天井、硬い寝台のほかにはほんの少し歩くくらいしか出来ない狭いスペースだけだ。しかも左右の壁に当たる部分は鉄格子になっている。まるで牢のような場所だ。
 なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。
 真木は――そう、自分の名は真木というのだ――ゆっくりと上体を起こした。
 自分の身体を見下ろす。ぼんやりと、霧がかかったかのような思考と現実味のない感覚から推測した危惧に反して手足は意思通りに動いてくれた。
 当然自分の顔は見えないが、見える範囲の体格からして成人男性の部類だろう。探ると自分がスーツを身に着けているのが判った。黒に限りなく近いダークスーツで、布地の手触りからすると結構な高級品だ。眠ってる間も外していなかったらしいネクタイも色は抑え目だがイタリアのブランドものだ。身なりに気を使っているようだとは判った。だが髪はなぜかえらく長い。男にしては明らかに長すぎる黒い髪が背中の半ばほどまでを覆っている事に真木は眉を寄せた。イタリア製ダークスーツに女性よりも長い髪とは、いったいどんな怪しい格好だ。……と、つい妙に突っ込んでしまう。自分の事のはずなのに。
 自分の姿を(妙に目新しい感覚で)確認して、それから真木は昨日の記憶を探そうとした。
 自分はなぜこんな格好でこんなところにいるのか、さっぱり判らないからだ。昨日はいったい何があったのだろうか。
 この周囲の状況を見たら誰でも普通に疑問に思うはずの事へと思考を巡らせ、……そして真木は背を震わせた。
 変だ。
 ぞっとするような感覚が彼を襲う。
 何も覚えていない――何も思い出せないのだ。
「そんな…バカ、な…」
 そんな事があるはずない。真木は慌てて思考を巡らせた。
 が、記憶は一向にはっきりしてこない。ここにいる理由どころか、ここに至るまでの流れの一つも思い出せない。
「……っ…ぅ、」
 意識を集中させようとすれば頭全体がひどく痛んだ。揺れる視界に外的要因を遮断しようと強く目を瞑り、頭を腕で抱える。
 と、後頭部にひときわ痛む部分に気づいた。指で探れば大きく腫れているのが判った。いわゆる瘤と言うやつだ。
 ぶつけたのか殴られたのか。それすらもどうやっても思い出せない。頭の奥に霧が掛かっているかのように全てが真っ白だ。
 自分はなんだ。なぜここにいるのか。どうしてここに来たのか。
 何もわからない。
 愕然と真っ白な頭を抱えたところで。
「やぁ」
 ――と、不意に掛けられた声に真木は顔を跳ね上げた。
 やや硬質で透明な響きのくせに妙に艶やかな、耳に心地よい声音だ。聞き覚えはなく、初めて聞く高く滑らかな声なのに、それをどこか懐かしくも感じる。
 その声は明らかに真木に話しかけてきた。
「やっと目が覚めたんだね」
「……!」
 声の主を探して視線を巡らせた先、鉄格子の向こうにいたのは一人の少年だった。
 年齢は十代半ばくらいだろうか。
 鉄格子に手を掛けて立つすらりと細身の身体はそう大きくはない。おそらく真木よりはずっと小柄だが、バランスは悪くない。
 窓のない人工的な灯りの下のせいか、もしくは黒い学生服のせいなのか、服の端から覗く肌はひどく白く見える。
 同じく白い顔は小さく、真木の掌ですっぽり包めそうなほどだ。
 その中の目鼻といったパーツはどれもが最高の素材であり、更に絶妙な位置に配置されているらしく、一見しただけでひどく整った容貌の持ち主だと判った。声と同じく硬質な印象の白い貌の中で薄めの桜色の唇が緩く弧を描いて、それが不思議な柔らかさをかもし出している。
 その白い貌の三方を縁取る髪は、この国の者にしては――しかもこんな年齢の少年では――ひどく珍しい銀色だ。白銀の髪は蛍光灯の安っぽい白い光の下でさえ艶やかに輝いている。
 肩より上とは言え長めの髪に細い体つき、ついでに怜悧に整った容貌だから一見は少女にも見えなくもないが、それを明確に否定するのは切れ長の大きな瞳だ。銀の髪の合間から覗く漆黒の瞳の強さはひどく鮮烈で、到底少女のそれではない。頬に影を落とすほどの長い睫毛の下の黒い双眸は光を宿さず、覗き込めばどこまでも吸い込まれそうに深い。
 闇色の瞳、と真木は漠然と思った。ひどく抽象的な、ないはずの表現だ。だが言葉としては一番それが相応しい気がした。
「お前は……?」