NO SMOKING! |
カタカタと一定の速度で続くキーパンチの音を横で聞きながらそっと葉は背後へ手を伸ばした。 リビングの一角は喫煙ブースだ。パンドラにも何人か喫煙者はいるからだ。その彼らにベランダに出て行けとは言えない。とはいえ、子供への悪影響を心配した真木とコレミツの主張によって空間的には完全に隔離されている。紅葉の空間固定能力を応用してこの一角は他と遮断されているからだ。つまりは完璧なエアカーテン、というわけだ。 だがもちろん念動能力を遮断するようには出来ていない。 喫煙ブースのテーブルに置きっ放しになっているそれを空気の壁から抜き出し、そっと掌の中に収める。 「葉?」 立ち上がったところで声がかけられた。気付けばキーボードを叩く音が止まっている。 「何、真木さん」 「どうかしたのか?」 「別に」 窺う視線に肩を竦めて返す。 「ゲーム飽きたからさ、ちょっと外の空気吸ってくる」 「……気をつけろよ」 「へーへー」 いったい何にと訊きたくなるが、それが現在トップを欠いている組織の留守を任されている彼にとっては口癖のようなもので、特に意味がないのは知っている。適当に流しながら葉は踵を返した。 その手の中の煙草をポケットにそっと押し込んで。 ■ □ ■ どこに行こうかと迷った末、結局屋上に来ていた。 葉の部屋もあるが廊下は年少組が走り回っているし、トイレではまるでそこらの不良学生みたいだ。 それに匂いでばれて真木にお説教を食らうのは避けたい。 その光景を想像しただけでうんざりして葉は溜め息をついた。 見た目で言ったら一回りくらい違うが、実際にはそんなに大きく年が離れているわけでもなくて、小さい頃はちょっと上の兄のような感じだったのに、兵部がいなくなってからの真木はそれまで以上に小言が多くなって、今では小姑のようなのだ(小姑なるものを葉は知らないが、マッスルがそう言っていたのだ)。 そんなわけで、夕闇迫るビルの屋上の端に葉は腰掛けていた。眼下では灯りを点しはじめたビルの海の間にヘッドライトの波がうねる。自然から距離を置いて作った街のくせに、こうやってみるとどこか自然を模しているようにも、もしくはそれ自体が何か巨大な生き物のようにも見える。 「……さぁてと」 ――とは言え現代っ子である葉にはそんな光景にも特に感慨はない。ごそごそとポケットから小さな箱を取り出す。 「えっとライター……あったあった」 これも一緒にこっそり借りてきたものだ。カチンと鳴らして炎が出るのを一度試し、にっと笑う。メンソールと書かれた箱の中から一本を引っ張り出して口に銜え、今にも火をつけようとしたその時。 「――やぁ、」 「…げほっ、」 ……と、突然目の前に白い顔が出現して葉は大きく咳き込んだ。 「こんなトコで何やってるんだい?」 「な……?」 思わず目と耳を疑う。 だって絶対にこんなところにいるはずのない相手だ。 「ぼ……ボス?」 だが五感を全部疑ってまじまじと見ても、すぐ目の前の空中でふよふよと浮いているのはいつもの学生服に身を包んだ彼らの首領だった。彼はにこやかに笑いながらひらりと手を振って見せた。 「えーと、ちょっと久しぶりかな」 正確には半年振りくらいにはなるが、そんな事を突っ込む余裕はない。 「ど……どうしたの、急に」 葉の驚きぶりが楽しいのか(おそらく驚かすためにわざと至近距離に瞬間移動してきたのだろう)くすくすと笑いながら兵部が空中でくるりと身を捻る。 それは魚が水中を優雅に泳ぐ様に似ている。 「気が向いたからちょっと散歩に来たんだよ」 散歩という単語から想像するにはパンドラのネストと特別地下牢の間には距離がありすぎるような気がするが、そんな事を気にしないのがエスパーであり、兵部である。 「で、君はこんなトコで何やってんのさ」 「あーいや、ちょっと気分転換しようと思って……」 無難な返事を口にしながら出来るだけさりげなくポケットに箱を戻そうとしたところで手の中から質感が消えた。次の瞬間には、それは兵部の手の上に移動している。 「タバコ……?」 掌に鎮座しているそれを見た兵部が途端に柳眉をきり、と引き上げた。そして言う事には。 「こらダメだよ、お前はまだ子供だろ」 ……やっぱりいつもの台詞だ。 「……もう十七だよ、子供じゃない」 葉は精一杯肩をいからせた。兵部に救われた時の小さな子供じゃない。もう身長だって兵部とほとんど変わらないのだ。 「ダメったらダメ、喫煙は大人になってからってここに書いてあるだろ」 ここ、と示されたところには確かにそんな事が書いてある。が、イマドキそんな注意書きを真面目に守る奴などいない。しかもなんていうか、兵部にだけは言われたくない。 なのに。 「ルールだからダメ」 と兵部はきっぱりと言い、葉は頭ごなしの言葉に口を尖らせた。 「俺達パンドラなのに、なんでルールに従わなきゃなんないのさ」 「なんでって?」 問いの意味が判らなかったのか銀の髪が揺れる。 「だってパンドラは反社会的組織、じゃん」 だったらいわゆる普通のルールなんか無関係でいいと思うのに。 「何が反社会的かは僕が決める」 だが兵部はさらりと言った。 「そして子供の喫煙を僕は許可しない。それだけ」 「うわ、横暴……って、いてててて」 ついうっかり正直に呟いたら見えない手で髪を一房ぎりっと引っ張られた。痛みより憤りに葉は大きく顔を顰めた。 「……じゃああと何歳になったら大人なのさ」 「そうだなぁ、」 十八なのか二十なのか、それとも真木みたいに兵部を見下ろすくらいに大きくなっても兵部にとっては『子供』のままなのか。 「ルール通り、二十になったらいいよって言いたいとこだけど…」 こうなったら絶対に引かない決心で上目遣いで睨む葉を見下ろしてうーんと兵部が唸る。 と、彼は何かを思いついたように不意に小さく笑って、そして言葉を続けた。 「…でもやっぱりお前は煙草は一生ダメ」 「……はぁ?」 そんな答にさすがにぽかんと口が開いた。やっぱり横暴すぎる。 「そんなのずるい」 結局はにべもなく撥ね付けられて葉は口を尖らせた。 なんだか理由もちゃんと言ってくれないままに半ばすすんでバベルの虜囚になってしまって、今では年に数回しか顔を見る事の出来ない兵部にまるで親のような(親なんて知らないからよく判らないけれども)口をきかれてたまるか。 「それに、俺がタバコ吸ったって、ボスには関係ないじゃん」 どうせもうたまにしか――兵部が気紛れを起こしてくれなければ、葉からは会う事も出来ないのに。 「いや、大いにあるね」 何でだよと抗議を続けようとした葉にひょいと白い手が伸びて頬を包まれたと思ったら、至近距離に白い顔が迫っていて。 そして不意に唇に感じたのは柔らかくてあたたかくて、そしてなんだか甘い感触。 「……きょ……ぅす、け?」 「お前とキスする時に煙草臭いの、僕がイヤだから」 呆然としている葉をよそに言葉が続く。 「さて、反論は?」 こういう時だけ遥か年上のずるい顔でにやりと笑って、その上で小さく首を傾げてみせる兵部を見上げたら、頭はほとんど真っ白で、当然気の利いた言葉なんかまったく思いつかなくて。 葉はなんだか不思議に震えている手を伸ばした。葉より少し高い場所に浮いてる身体は簡単に葉の腕の中に入ってくる。 闇色の目を細めて満足げに笑う表情がまるで猫のようだなんて思ったのが最後のまともな思考だった。 ――と、そんなわけで。 葉の喫煙デビューのチャンスは、永遠に潰えたのだった。 |
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