子供の領分


 なんだか賑やかなリビングのドアを開けたら、そこに年甲斐もなくはしゃいでいる姿があった。
「……何やってんスか、ボス」
 年少組の子供たちを一列に並べてリビングの柱のところに立っているのはこのパンドラの首領――ボスである兵部京介だ。
 相変わらずの学ラン姿で、なぜか三角定規を片手に持って柱に向かい、何かやっている。
 藤浦葉は片眉を器用に引き上げて見せた。呆れてる、という意思表示だ。だがもちろんそんなくらいの周囲の反応を気にするような人ではない。
「背比べだよ」
 実際、こっちの表情を丸無視してにこにこと楽しげな顔が返事をくれた。
「せいくらべ?」
「こうやって毎年計っておけば皆の成長具合が判るだろ?」
「刻んでって……まさかこの柱に?」
 慌てて見ると、案の定リビングの柱には何本もの線が刻まれていた。しかもご丁寧にマジックでそれぞれに矢印をつけて名前まで書いてある。
「こりゃマギーが怒るな……」
 予想は容易で、顔をしかめた葉は頭を掻いた。
 生真面目で几帳面な性格で、一番の幹部なのにひたすら年少組の世話や掃除や整頓に明け暮れている真木司朗は今日は兵部に命じられた用事で出掛けている。明日帰って来てこれを見たら髪を逆立てて(比喩ではなく実際にそうなるところが怖い)怒るだろう。……もっとも真木のお説教などかけらほども気にするような人でもないわけだが。
 実際、葉の呟きさえもまったく気にした様子もなく三角定規のを宙に浮かせた兵部が今度はいそいそと自分の背も測っている。
「ちなみに僕はここ。この中で何人が追い抜けるかな?」
 念動力を使ってマジックで線を引き、せいぜいが大人の胸あたりまでしかない子供たちにとってはかなり上の部分を兵部は示した。ちなみに葉にとってはちょうど目の高さあたりだ。
「とりあえず来年は今年の記録を大きく越してるといいね」
 これから成長期に入る子供たちにはちょっとした目標が出来たわけとなる。
「だから、好き嫌いなんかしないで食事はちゃんととるんだよ」
「はーい」
「だっせ……ぅわ、」
 子供たちの元気いい返事はともかく、結論の無理やり具合につい呟いたら頭上から三角定規が落ちてきた。ご丁寧にも三十度の部分が頭のてっぺんに刺さって葉は顔をしかめた。
「いたいっスよ」
「生意気言うからだよ」
「ナマイキねぇ」
 細い肩を聳やかし、えらそうに年上風を吹かす(実際に葉よりずっと年上なわけだが)兵部の言い草にやれやれと溜め息をついて、そして葉はふと何かに思い当たったように瞳を瞬かせた。
 顔を上げてもう一度柱の傷を見て、それから兵部に視線を移す。
「……なに?」
 何か言いたげなのに気付いた兵部が葉へ向き直る。
「ねーボス、すっごい大事な事を思い出したんだけど、ちょっと付き合ってもらってもいいっスか?」
「大事な?」
 こっちを見返す白い綺麗な顔を見つめて、その角度で時間の経過に改めて気付く。ほんの数年前まではいつも見上げていたはずの兵部は、今は自分がほんの少しだけ視線の角度を下げる位置に変わっているのだ。
 やっぱり、と内心で呟く。
「ボスの部屋じゃないとちょっと出来ない話なんだけど」
「……いいけど」
 兵部が頷いた途端、周囲の光景が変わった。瞬間移動にはもうすっかり慣れているので今更驚いたりしないし、部屋の真ん中で放り出されても念動能力者には特に支障はない。
 ふわりと身体を浮かせてリビングの真ん中に葉は着地した。対して兵部の方はソファの上で、学生服の上着を脱いだところだ。
「で、話って?」
「えっとね」
 葉はくるりと見回すと部屋の一角に足を進めた。リビングと寝室を区切るドアの端へと手を伸ばして、すぐにそれを見つける。
 兵部と書いてある線の十五センチほど下に葉と書いてある。書き込まれた日付は二年前のだ。
 その線を示した葉は兵部を手招いた。
「これ、覚えてる?」
「……なんだっけ?」
 覗き込んだ兵部の首が傾げられる。きょとんとした表情は結構素のものだ。どうやらやっぱりすっかり忘れているらしいと判って葉は大きく溜め息をついた。
「説明面倒だから、透視んで」
 無造作に手を差し出すと真っ黒の瞳が少し困ったように揺れるのが葉には判って、内心で笑う。
 同じ幹部の中でも一番古株の真木はいつも思考を読まれまいと懸命に逃げるが、実際には逃げるからこそ追いかけたくなるという兵部の天邪鬼な心理を判っていないだけだ(解っていてもあの生真面目な性格ではなかなか対処が難しいのだろうが)。しかも本人が隠そうと懸命になってる部分は、実際には表情と態度だけで充分ダダ漏れだったりするから、逃げる真木を追いかける兵部を見ている葉としては、楽しそうだなぁとの感想しかない。
 だが、実際の兵部はのべつまくなしに思考を読んだりしない。
 人の心の奥まで読む事の弊害もよく知っているのだし、仲間のそれを読んでしまえば実際には動きにくくなることも判っているからか、もし読むとしても必要な部分しか読まない。
 だからこれは簡単で都合のいい伝達方法、くらいにしか葉は思っていない。特にこんな場合は。
「なんなんだよ、もったいぶっちゃって」
 やや気乗りしなさそうな表情で兵部が伸ばした高音の微かな振動波を伴った指先が葉の掌に触れて。
「あ……、」
 まるで熱いものに触れたようにぱっと手を離して顔を上げた兵部に、葉は至近距離で視線を合わせた。
「前約束したの、忘れてた?」
 兵部が読んだ――この場合読まされた、が正しいのかもしれない――のは、わざと浅い層に出しておいた二年前の葉の記憶だ。
『ずいぶんとマセたな』
 でもまだダメ。
『早くもっと大きくおなりよ』
 二年前の五月の同じ日にたまたまバベルの特別牢から抜け出して帰ってきた兵部は端午の節句とか言う話を持ち出して、柱で葉の背丈を計ってくれた。そしてまだずっと背が低かった葉の癖の強い髪を撫でながら悪戯っぽく笑って言ったのだ。
 僕の背丈を追い越したら、その時は考えてあげるよ、と。
「あれは……、」
 葉の記憶を読んでさすがにその時の事を思い出したらしい兵部が珍しく困った顔をするのを葉は楽しく見つめた。
「…その……、考えてもいいよってだけのことで」
「それって、言葉の綾とか言ってよく大人が逃げるやつだよね」
 どうにか無難に逃げようとするのを許さない。
「約束じゃん」
 約束、という単語を殊更はっきりと発音する。だが兵部はまだ受け入れてはくれないらしい。
「でもだって、お前まだ子供だろ」
「そんな事言うなら、もっとちゃんと透視んでよ」
 手を差し出す。それだけじゃ逃げられるから強引に兵部の手首を掴んで引き寄せ、白い手を自分の掌に重ねて。
「そしたら本気だってわかるでしょ?」
「葉……」
「俺はマギーじゃないから、察して我慢とか出来ない」
 まだ子供だからさ、と付け加える。
 欲しいものは欲しいのだ。
 無理に欲しがったら嫌われるんじゃないかとか、いつか後悔するんじゃないかとか、そんな面倒な事を考えるのは大人の領分。
 子供はいつだって、手に入るだけ欲しい欲張りだ。
 ほぼ無理やり思考を読まされた兵部は口を尖らせた。
「お前、……ずるい」
「京介ほどじゃないよ」
 都合のいい時だけ大人になったり子供になったり、いい加減な兵部よりはずっと自分の方が正直に生きていると思う。
 子供の頃から大好きで欲しかった人と約束をしたのだ。
 もっと背が伸びていつか追い越したら、その時は……。
「だから京介をちょうだい?」
「……子供のくせに」
「うん、子供だから」
 直裁に言えばぐっと詰まって、悔しそうに呟く言葉ににっこり笑って頷く。開き直りと言われればそれまでだが、心から本気だ。
 大人になる事で何かを我慢しなければいけないのならずっとこのままでいいと思う。いつまでも兵部の傍で甘えていたい。
 もちろん、パンドラ幹部としてはちゃんとするけれど。
「ああもう、」
 一向に引く様子のない葉にようやく兵部が寄せ気味だった眉根を解いた。まったく、とか小さく呟いて体の力が抜かれる。
「……仕方ないな」
「諦めた?」
 にっと笑って、いつの間にか自分の成長がすっかり追い越して、記憶のものよりずっと細くなっている手首を掴んで引き寄せる。
 背中に手を回して距離を更に詰めても、もう兵部は逃げない。
 観念したように、あるいは許すように長い睫毛を伏せる白い貌の中、薄赤い唇に葉は恭しく口付けた。

葉x兵部というより、端午の節句に関する話を書いてみようと思ったらこんなんになりました……。
てか、そんな行事はもうとっくに終わってるし、ぜんぜん子供っぽくない話ですね(笑)。

大人と認めてほしい真木に対し、葉は兵部に対してあくまでも子供として振舞うという感じにしてみました。で、兵部は子供にはめっちゃ弱い法則を適用。なので、二人きりの時は葉は言葉使いも変えてます(小さい頃は京介って呼んでたので、それも復活←実は頭脳プレイ)。
子供の我侭を兵部にぶつけながら強引に押し倒すといいよ、葉。
先に子供特権を持ち出されてしまって、我侭を言い出せなくなった兵部がつい押し負けるってのはどうでしょう?(誰に聞いてるんだ)
今のとこ、うちの葉は色々興味津々なお年頃でもあるので色々やっちゃいそうです。
……道具とか(えええ!?)。