The Catcher in the Rye



『ダメだよ、僕は君の義父なんだよ?』
『構うものか、貴方が好きなんです』
 彼はそれ以上抵抗する力を失ったようだった。



 ――ガタン!と乱暴に扉が開いて、中から真っ赤な顔の子供がよろよろと出てくるのを兵部は楽しく出迎えた。
「やぁおかえり、真木」
「きょ……っ!?」
 兵部が待っているのは思いもかけない事だったのか、子供は黒い目を大きく見張って兵部を見上げ、そしてまたいっそう顔を赤くした。
 その顔を見下ろして兵部は笑った。中で何があったかを兵部は知っている。中にいる人物にとある本を読んでもらうように命じただけでなく、催眠能力で登場人物の立ち位置を変えて感じるように細工したのは兵部本人だからだ。
 だがそんな事は欠片も顔に出さず、兵部はにっこりと笑いかけた。兵部の笑みを前にして子供が抵抗できない事を知っている。
「宇津美さんの朗読はどうだった?」
 できるだけ思考から離していたいであろう部分を単刀直入に突っつくと子供は困ったような表情で懸命に言葉を捜す。
「……お……怒られました、あんな本子供の教育に悪いって」
「教育って、」
 昔馴染みの相変わらずの頭の固さについ吹き出してしまう。
 小さな子供の頃ならともかく、この子はもう自分を追い抜かすくらいの背丈に育っているのに。普通の状況ならもっと早くこの手のことに興味をもってしかるべきところが、複雑な環境が邪魔をしてそうなっていなかっただけだ。
 そのくせ最近妙に煮詰まっている事に兵部が気づいたから、それで荒療治にかかったのだ。
 だから、これこそが教育なのに。
「で、どうだった?」
 兵部は子供を見下ろしてニッと笑みを深めた。
「ドキドキした?」
「い……いいえ、」
「隠さなくていいんだぜ、君ももう十七才なんだし、そろそろこーゆーのに興味もってもいい年なんだから」
「明日で十八です!」
 宙をフワフワ浮きながら顔を覗き込むと(浮いていないと子供を見上げる体勢になってしまうからだ)、そこだけはぴしゃりと返された。十七でも十八でも、兵部にはあまり変わりはないのだけれども、彼にとっては拘るべき重要な部分らしい。
「もう大人ですからっ!」
「うん、もう大人だね」
 いつも兵部の子供扱いに(実際子供なんだけれども)抗議している子供に、今日だけはあっさり頷いてやる。……と、虚を突かれたように子供はぽかんと兵部を見上げてきた。
 その耳元に含みを持たせて囁いてやる。
「だから、たまには葉たちチビの世話ばっかりじゃなくて、街に行って誰かと会ったりしてもいいんだよ」
 そうして至近距離からじっとその顔を覗き込む。
 きゅっと上がった濃い眉に真っ黒の瞳。鼻は高いし彫りも深い。いわゆる美男子ではないが、それなりに整っている顔立ちは好感が持てるものだ。拾った時の小ささが嘘のように背が伸びて、肩幅は広くがっしりとした身体つきで腰の位置は高い。おそらく純粋な日本人ではないエキゾチックな外見は、万人向けとは言わないまでもそれほど拒否されるものとも思えない。
 だからにっこりと笑って、一応普通の方向性を指し示しておく。
「君なら超能力者だってばれなければ結構モテると思うから」
「そんなもの!」
 だけど、せっかくの提案にも子供はぶんぶんと首を振る。肩より少し長く癖の強い黒髪が勢い良く揺れた。
「そんなもの……、俺は、」
 どうだっていい、と俯いてしまう子供は耳まで真っ赤だ。
「俺が好きなのは、…あんただけだからっ!!」
 自棄になったように叫んで、次の瞬間はっとする。取り返しのつかない事をしてしまったのではないかと怯える目を真っ直ぐ見返し、兵部は微笑んで見せた。



 ――正直言えば、子供の気持ちには最近まで気づいていなった。
 最初はともかくここ数年は一緒にいられる時間は少なかったし、じっとひたすら見つめられるのも、育ての親にたまにしか会えない状況ゆえの心細さのせいだと思っていたからだ。
 だが気づいてしまえば、その視線を心地よく感じている自分がいた。兵部に比べたらはるかに年下の、まだ能力だって完全には使いこなせていないほんの子供なのに、向けられる視線と意識、そして心は、兵部をあたためてくれているのだ。
 それに気づいたら、手放すなんて考えられなくなった。
 だけど子供は自分の気持ちを懸命に否定し、隠し、なかった事にしようとしている。
 兵部が命の恩人で育ての親で同性で年上だから。
 それが普通のこととは判っていた。彼の年齢なら気立てが良くてかわいらしくて年下の無邪気な少女と付き合うのが普通のことだ。それが同じ超能力者なら申し分ない。
 そう思って、だから兵部も気づかない振りをしていたのに。
 子供から遠く離れた地下牢で、ある日急に不安になった。
 もしあの子が他の誰かを見つけてしまったら。あの瞳に込められた熱を感じられなくなったら。
 子供を拾って以来、再び感じられるようになった暖かさも光も失うなんて考えられない。あの子が与えてくれているものなのに。
 そのくらいなら。……決心するのにそう時間はかからなかった。
 失うくらいなら奪う。後悔なんてさせない。そんな事を考えられないくらいに自分が満たしてやる。そして自分もまたこの子によって充たされるのだ。
 そのためにこんな方法をとったのだ。だから逃がしたりしない。
「おいで、真木」
 だから。
「……京…介…、」
 手を差し出せば躊躇いがちに、それでも縋るような目の子供がおずおずと手を重ねてくるから。
 兵部はようやく手に入れた子供を手に、自室へ瞬間移動した。




『ダメですよ、俺はあなたの子供なんですよ!?』
『構うもんか、僕が好きなんだろ?』
 懸命に堪えようとする瞳を覗き込んでそう言って笑えば。
 彼はそれ以上抵抗する力を失ったようだった。


本誌26号=175話ネタ。
あの本が宇津美さんに朗読されたのはこれが初めてではありません、ネタ。
お前アホだろ?って言われるギャグの予定が、途中で兵部が軌道を狂わせてくれました。危ない危ない……。それでも、やっぱりアホですけど。
自分的ツボは最初と最後って事でよろしくお願いします(笑)。

タイトルは、教育者があまり薦めないであろう本繋がりでなんとなく。
ライ麦畑から崖に落ちちゃう子を掴まえる役になりたいのはどっちかなぁとか妄想(笑)。