……これでは間に合わない。 そんな判断に、真木は時計を睨んだ。 今日中に何とかしてこの仕事を終わりにして帰りたかったのに、事態はどうにもそう上手くは動いてくれないようだ。 ここ数日組んでいたコレミツは先に本部へ帰してある。今日という大事な日を迎えるにあたっての用意は充分にしてからこの仕事に挑んでいたが、それでも仕切るための代役が必要だ。人材豊富なパンドラだが、こんな時に羽目を外さずに統率できるメンバーの心当たりは少ないというのが悲しい現実だ(本来なら残りの幹部に任せたいところだが、彼らは二人とも羽目を外さない、という第一条件をクリアできないのだ)。 そんなわけで、夕方から一人で苛々とした視線で時計と窓の外の建物とを往復させる状態が続いていた。まったく動く気配のない眼下に真木の目が据わってくる。幹部としての責任感がどうにか真木をここに押し留めている状態だ。 帰りたい、と内心で喚きながらもう一度、親の仇を見るような目で(もちろん本当の親なんて覚えていないけれども)時計を睨んだところで、視界の端で何かが動いた。 「…………!」 慌てて視線を戻せば、眼下の建物から数人の男が出てくるところだった。強面で黒スーツの、明らかにきな臭い連中の一人がアタッシェケースを抱えている。 それを見て取ってほっと安堵の吐息をつく。真木の祈りが通じたのか(神なんて信じていないが)、待ち望んでいた事態がようやく動き出したようだった。
動き出した車の後をはるか上空から追跡する。警察には注意を払っているだろうが、まさかまったく異なる組織が狙っているとは思っていないらしく、尾行の車がいないと見て取った車がスピードを上げていく。 しばらく追走すると人気のない海岸の道に出た。夏の日中なら混み合う道路も、まだ春先で、しかも深夜の今は誰もいない。 と、そこにもう一台の車がやってきた。 先に着いていた男達だけでなく、上空に佇んで眼下を注意深く観察する真木にも緊張が滲んだ。 この男達はとある特殊な薬品の売買組織だ。彼らが秘密裏に手に入れたその薬品を奪取するため、取引の現場を押さえる必要があった。薬品だけなら簡単に手に入るが、どうせなら取引相手が持ってくる現金も一緒に頂こうという思考が兵部だ。 その命令で数日をずっと見張りに費やし、延び延びになっていた取引を当人以上に待ち望んでいたわけだが、これでようやく目的を果たして帰れる。 と、そうほっとしたのも束の間、男達は数言を交わすと再び踵を返してしまった。愕然と見守りつつ耳を澄ませば、どうやら事前交渉での金額が結局折り合わなかったらしく、取引は明日改めてとかいう挨拶を交わしているのが聞こえる。 真木は目を数度瞬かせた。自分の耳が信じられなかったからだ。 「ふ……ふざけるなっ」 思わず声が漏れた。この数日ここでずっと彼らを見張って、ようやく取引が始まったと思ったのに。 「また明日だと??」 やっと帰れると思ったのに。怒りと焦りと苛立ちで目の前がクラクラしてきた。それでなくてももう間に合うかどうか、かなり怪しくなってしまっているのに。 半分無意識に、真木の髪が長さを増した。一気にケリを付けたくて仕方ない。そうすれば少し遅れるにしろ帰れるのだ。 だが、兵部の命令は『薬品と金の両方を同時に奪取する事』だ。 真木はぐっと拳を握って攻撃したい衝動を堪えた。兵部の命令は絶対で、取引が明日になるというのなら、その明日まで堪えるのがスジだ。何よりそれが『仕事』と言うものだ。……と、自分に言い聞かせた真木が男達に背を向けたその時。 唐突に一発の銃声が辺りに響いた。 パァンという、空気が弾けるような軽い音を聞きなれた連中が咄嗟に身を屈め、それから二台の車の間で怒号が飛び交った。 「裏切りやがったな!」 「そっちこそ!」 お互いに脛に傷を持つ身である上に、血気盛んな連中だ。罵声の応酬はすぐに銃声を伴うものとなった。 「…………?」 眼下での急展開に真木は目を瞬かせた。 この状況でいったい誰が発砲などしたのだろうか。上空から一人ひとりを見てもよく判らない。 まぁいい、と真木は疑問を捨てた。 いったいなぜこじれ始めたのかは判らないが(銃を撃つような状況ではなかったのに)、こうなったらこのチャンスを見逃すわけにもいかない。元々欲しいのは薬品で、金の方は運が良ければ、的な副産物だ。 こうなったらさすがに細かい事には構っていられない。 ええい、と真木は背に広がる髪を大きく伸ばしてうねらせた。
二台の車を破壊し、伸ばした炭素製の手で男が抱えていたアタッシェケースを奪う。そこでようやく現場に第三者がいた事を知った男たちが銃口を向けてきたが、もう遅い。銃ごときで超能力者――しかも念動力系を抑えられるはずがない。 そのまま更に上空に距離を取った。普通人の彼らにはどうやったって追って来れない場所だ。 「……ふぅ」 アタッシェケースを脇に抱えながら真木は一つ溜め息をついた。 結局目標は半分しか果たせてないし、そのくせ時間は無常に流れてしまった。不可抗力の突発事項があったとは言え、結果だけ見たら、この任務は失敗に映るだろう。こんなに(待つ事を)頑張ったのに。 重い気持ちでもう一度時計をみる。 何度も見て、針の示す数字を確かめると真木はがっくりと肩を落とした。あと五分で日付が変わる。 真木は空は飛べるが瞬間移動能力者ではない。ここからどんなに車を飛ばそうが能力をフルに使おうが、真木が東京に辿りつくには数時間は掛かる。 「……もう間に合わんな」 判りきってる事実を自分に言い聞かせる事で諦めようと悄然と呟いたその時。 「そんな事もないんじゃない?」 不意にそんな言葉が耳をかすめて、真木は弾かれたように顔を上げた。涼しげかつ艶やかで、蠱惑的な笑みをふんだんに散りばめた声が誰のものかは判っていたし、それが思いもかけずすぐ傍から聞こえたからだ。 「しょ……少佐?」 「はい、こっちは金の方」 どうしてここに、とぽかんと呟けば、小ぶりのアタッシェケースを差し出しつつ、僕は瞬間移動能力者だよと薄い胸を張って兵部が笑う。そうしつつ右の人差し指をピンと立てる仕草で判った。一発目の銃声に聞こえたあれは、兵部だったのだ。 「いえ、そうではなくて」 真木はケースを受け取りながら唸った。もちろん、そんな事を訊いているわけではない。 「なぜこの時間にここにいるんですか」 「別にいいじゃん」 くるりと身体を回して兵部は真木の強めの視線をさりげなく避けた。そうしつつ小さく笑う。 「ま、君が用意してくれた誕生会はまだやってるけど」 「ダメですよ」 真木はぴしゃりと主人の言葉を叩き落した。 「あなたのための日なんですから、ちゃんと最後まで皆に付き合ってください、って言ってあったでしょう」 「おいおい、間違えるなよ」 準備に掛かった時間とかここ数日間の焦りとか、色々なものがぶり返して思わず声がきつくなれば、形のいい眉を片方だけ器用に吊り上げた兵部が肩を聳やかせた。そして言うには。 「これ、僕の誕生日の祝いなんだろ?」 そりゃ皆とわいわいできるのは嬉しいけどさ、と呟きつつ少年は肩を竦める。 「でも今日が僕の日だって言うなら、僕の欲しいものが欲しいじゃないか」 「欲しいもの……?」 真木は眉根を寄せた。ちゃんと事前に本人に訊いて、兵部が必要とするものは全部揃えてあったし、パンドラの全員に兵部へのプレゼントを用意するように通達してあった(年少の子供達にはそのために特別に小遣いまで渡した)。 自分が仕事に入ってしまうのが判っていた分、ことさら注意を払って完璧に準備していたはずなのに。 「なにか足りませんでしたか?」 心配になって大事な主人を覗き込めば、呆れたような眼差しが返ってくる。 「……まったく、全然判ってないな」 「何がです?」 と、不意に兵部が動いた。ひょいと無造作に距離が詰まり、そしてすぐに元通りに離れる。そして赤い唇は微笑の形を作った。 「僕の欲しいものがお前だって事さ」 「………………え、」 甘い言葉が鼓膜を通って脳に届き、そして真木がその意味を理解するまでには、たっぷり五秒は掛かった。 時間をかけつつもどうにか真木が理解できた事は兵部にも判ったようだ。途端に顔が真っ赤になってしまった真木を見て、白い顔が楽しそうに笑った。 「たまには自惚れてみたらいいのに」 「そ……んな、」 からかう口調に反射的に首を振ってしまう。そんな事が出来るはずがない。いつだって懸命に兵部の事を考えている自信はあるが、結局いつだって彼に全然追いつけていないのだから。 そんな思考は兵部には筒抜けらしい。小さく吐息がつかれた。 「……まぁ、君のそんなところが気に入ってるわけだけどね」 「少佐……」 「でも、ここからは間違えるなよ?」 くすりと笑った兵部が手を伸ばす。 「……はい、」 さすがにこれから自分のすべき事は判っていた。しかもそれは真木の望みでもある。 二つのアタッシェケースは炭素の手に持ち直し、自分が望むままに真木はその手をとると、ことさら丁寧に、だけど強くその身体を抱きしめた。 他に誰もいない夜空の真ん中で。
|