SAKURA-SAKU
 


 ちょっと寄ってかない?
 そんな一言を残して高度を急に下げる兵部に真木は慌てて炭素の翼の大きさを変えた。翼で、というより念動力で飛んでいるのだが、炭素がキーワードの合成能力者は実際には必要なくてもいちいち翼という形態をとる必要があるのだ。
「どしたんですか、急に」
 そうして都内では有数の大きな川の中央あたりの低空まで下りて浮かんでいる兵部に追いつく。何かありましたかと問う真木に兵部は別に、とどこか上の空で返してきた。
「単に、綺麗だなと思って」
「……何がです?」
「桜だよ」
 そう言われて気づけば、この川沿いは都内でも有名な桜の名所だった。ちょうど川の中央にいる二人の視界には左右に桜の長い列を見る事が出来る。
「ほら、もう咲いてるね」
 くるりと周囲を見回して、そうして兵部が一角を示す。その指の先を見れば、確かにもうそんな色があちこちに広がっていた。
「そういえば、ニュースでそろそろ開花すると言ってましたね」
 開花の基準となるのは定点観測になっている場所の桜の木だ。だがもちろん、立地条件によってはそれより早く咲き始める樹もあるわけで、実際、この通りの桜はそのほとんどが淡紅色の花弁を開いている。川の土手の日当たりがいいからかもしれない。
「桜かぁ、またもう一年経っちゃったんだね」
 月日が経つのは早いなぁ、と、まるで年寄りのような事(外見との違和感は大きいが中身的には正しい)を口にする兵部に真木は瞬間、目を曇らせた。
 一年とは、子供達にはこれからもずっと続く時間の一部でしかないが、兵部にとってはそれほど多くない時間の大事な一部だからだ。これはまだ一応若い部類に入る真木であっても認識は後者の部類に入る。兵部がこの世界に存在する時間だけが真木にとっての『時間』だからだ。
 今この一瞬一瞬が大事なのだと、そんな認識に心が冷えそうになるのを懸命に抑えながら、縋るように兵部を見つめる中で、そんな真木の心を知らない兵部はのんびりと空中に身を漂わせながら花見を楽しんでいる。
 艶やかな銀の髪を微風に揺らしながら、表情はとても気持ちよさそうに穏やかで、その姿にふんわりと真木の心があたたまっていく。
 先を悪い方向にだけ考えるな。未来を変えるために、僕たちは未来を知ったのだから。――それが兵部に言われた事だ。
 だから今は先の事は考えない。この一瞬さえも大事にしていきたいとは願うけれども。
「本当は散り際が好きなんだけど、咲き始めも綺麗なもんだね」
 こういう時はさすがに日本人って気がするなぁなどと兵部が呟くのを、そんな思いでぼんやり聞いていたら。
「……真木?」
「あ……はい、」
 名を呼ばれてはっと我に返る。
「さっきから何黙ったままなんだい?」
 慌ててみれば少し首を傾げた兵部がこっちを見ていた。
 見上げる頭上は一面のやわらかい青で、ところどころに浮いた雲が逆に空の高さを知らせる。
 薄紅の小さな花の群れを背に、やわらかい春の太陽に照らされた黒い学生服も白い肌も銀の髪もいつも以上に目に鮮やかだ。
「い…いえ、別に……なんでもありません」
 単にあなたの事を考えて、見惚れていただけです、なんて本当の事は言えないから、いつもなら口中でもごもご呟いて終わりだ。
 元から気の利いた事が言えるような性格ではない。思ったままを素直に全部口に出来るのは子供の時代だけで、良くも悪くも真木の子供時代は普通よりずっと短かったからだ。
 だから、いつもならこれで終わりだ。
 だが、少しして大きく顔を上げたのは、春を含んでそよめくやわらかい風に、少しだけ真木の勇気が振りしぼられたからだ。
 それほど長い時間が残っているわけではない。毎年桜を見る度、毎日毎日を過ごす度に残る時間は少なくなっているのだ。
 いつもはそれに気づかない振りができるけれども、今日は気づいてしまったから。
 一緒の空間にいられる時間をもっと大事にしたくなる。
 そんな決心を、春の柔らかい日差しとそよ風が背中を押す。
「……少佐、その…、」
「なんだい?」
 一度咳払いをして、口ごもりながらも言いかければ兵部が律儀に視線を向けてきた。光を放たない闇色の瞳も、さすがに今日は穏やかでやわらかい。
「……あの、い…、いつもそう思っている事ではあるのですが、と、特に今日は」
「今日は?」
 今だ、と自分に念じる。言うなら今このタイミングしかない。
「今日は、とてもき、…き…キレ、…ぃぐ、っ!!」
 一世一代のセリフは、うまく言えなかった。緊張しすぎで舌を噛んでしまったからだ。予期していなかった痛みに言葉を途切れさせて硬直する真木をよそに、兵部はきょとんと首を傾げた。
「……うん、確かに綺麗だけど?」
 返った言葉はどこか戸惑い気味な響きだ。
 ちらりと背後に向けられた視線で兵部の誤解が判った。
 真木が桜の事を言ってると思ったらしい。
 もちろん違う。桜も確かに綺麗なものだとは思うが、傍らにこの人がいたら、真木の目は兵部しか映さないし、それ以外のものに対する感慨など何も持てない。
「ええと、……その、……」
 そういう意味ではなくて、と言おうとしたもののその先を何と続けていいのか判らない。こう言いたかったんだと言えるようなら最初から舌を噛んだりなどしないのだ。
 苦悶しつつ肩を落とす真木から兵部の関心はすぐに移る。
「まぁいいさ、いつもは無骨で野暮な真木にもたまには桜を愛でる風流な部分があったって事で」
「野暮……ですか」
 兵部の言葉に真木はがっくりと肩を落とした。言い返す余地もない。確かにその通りだ。好きな人に――しかも相手がそれなりに自分に心を分けてくれているのまで知っていながら、たかがあんな台詞さえマトモに口に出来ないなんて。
 相変わらず根性がない自分が情けない。
 などと、一人で反省するその様子が面白かったのか、真木より少し上に浮かぶ兵部がくすりと笑う。そして少し声音が変わった。
「そうだよ、こんなに絶好のロケーションに二人きりなのに、手を繋ごうとさえしてこないなんて」
「え」
 と、兵部の台詞の意味につい耳を疑って目を見開いたところで、微かな空気の動く音とともに目の前――腕の中に兵部が現れた。
「しょ、しょう……」
 予想外の瞬間移動に反射的に彼を呼びかけた口に、ふわりとやわらかい感覚が下りてくる。
 最初は触れるだけ。それからもう一度、今度はもう少し深く。
「しょうがないから、僕から誘ってやるよ」
 甘い囁きをもらえば、そこからはさすがの真木にも自分のすべき事――許されている事は判ってくる。
「来年も一緒に、ここから桜を見よう」
 なので。
「はい、少佐」
 そんな儚くて切なくて優しくて大事な約束に頷いて。
 世界で一番大切な人を何より大切に抱きしめると、真木は風に舞う桜の花びらのように薄赤くて繊細で気まぐれで愛しい唇をそっと塞いだ。


たまには甘々で。(ホントはオチあったんですが、今ラブラブ萌なので切ってみました)
茨城の桜が開花するまでに間に合いました……。が、東京の開花には間に合わなかった……無念(笑)。