窓が軋む微かな音にふと目を覚ます。
眠い瞼を懸命に押し開けて見れば白い影がふわりと動くのが判って、真木はそっと身を起した。
子供三人で使っている大きなベッド――真木が横になっても縦になってもまったく困らないような大きくてふかふかのベッドの真ん中――つまりは真木の隣だ――が空いていた。
隣の紅葉は真木に背を向けて、枕を抱えるようにして眠っている(紅葉には安心できる方に背中を向けて寝る癖がある)。いつもは寝相が悪くて、時に真木を蹴飛ばしてくる葉も、今は布団からはみ出さずにいる。まだ夜中に魘されてぐずる事の多い葉だが大概兵部と一緒に寝る時はおとなしい。こういう時、兵部にべたべた引っ付いて寝ているのが真木としてはちょっと面白くなかったけれども、葉はまだほんの子供だから仕方ないのだ。
消去法をしなくてもいないのが兵部だというのはすぐに判った。
慌ててベランダを見れば、白い影が佇んでいるのが見える。
紅葉を起さないように注意してベッドから出る。
暖房が効いていて夢のようにあたたかなこの部屋は、裸足でも冷たくない。でもガラスに隔てられた銀色の月の光が降る外の世界はきっと寒いだろう。
真木は振り返ると一度部屋の端まで戻った。目的のものを見つけて、そうしてそれを手に急いで追いかける。
「京介」
「起しちゃった?ごめんね」
ベランダへ通じる窓を後ろ手にきちんと閉めてそっと声を掛ければ兵部は振り返りもせずに答えた。足音は消していたつもりだったが、気配で気づいていたのかもしれない。
「葉も紅葉も寝てるから大丈夫」
真木は早口で答えた。そんな事が心配なのではない。
「京介、これ」
椅子の背から取ってきたのはブランケットだ。半ば引きずりながら抱えてきたそれを背伸びして兵部の肩に掛ける。……伸ばした手の高さがちょっと足りなくてずり落ちてしまうのを慌てて背中辺りで押さえながら真木は京介、と促した。
と、ふわりとブランケットが浮いた。
「君がかけてなよ、風邪ひくよ」
深夜の空気は凍る寸前のようにピンと張り詰めていてぴりぴりと頬に痛いのに、薄いパジャマ姿の兵部は緩く髪を揺らすだけだ。
悔しいから真木も同じように髪を揺らした。兵部が寒くないなら自分だって寒くない。
「俺は寒くないよ」
「寒いよ、冬だもん」
「平気だって……――くしゅん!」
やり取りの間に鼻がむずむずしてついくしゃみしてしまったらくすりと兵部が笑うのが聞こえた。
「……ほら、風邪引いたら困るから、先に戻ってなよ」
「やだ」
室内を示す育ての親に真木は大きく首を振った。
「だって……」
見上げる先の兵部は、銀色の髪がより冷たく冴えて輝いていて、夢のように綺麗だと思う。
でも冷たい月の光にその全身を滲ませて、まるで今にも空気の中に溶けて消えてしまいそうにも見える。
高い空に掛かる月を見上げるその横顔がひどく寂しそうだから一人にしておきたくない、と真木が思ったなんて判ったら、きっと兵部は傷つくから。
真木はえぇと、と言葉を探した。
「だって、葉は京介がいないと俺の事蹴るから」
言い訳にしてゴメン、と内心で末っ子に謝る。実は結構本当の事ではあるが、言い訳としては明らかに無理な内容に兵部が小さく笑った。
「……じゃあこうしようか」
言うなり手を引っ張られて、背中から抱き込まれた。ふわりと二人の周りを包んだのは真木が引きずってきたブランケットだ。
「京介?」
「これなら寒くないね」
「……京介も寒くない?」
「司郎があたたかいからね」
心配になって見上げた先で、大丈夫だよと言った後に悪戯っぽく笑った兵部が付け加える。
「湯たんぽみたいにね」
「ゆたんぽ……」
なんだか微妙に不本意な単語に真木は口を尖らせた。そんな間の抜けた響きの物体、全然格好良くない。
でも今はまだそんな呼称に抗議できないから。
「すぐに京介を包めるくらい、大きなおとなになるから」
もう少しだけ待っててね。
そう言えば兵部がそれはそれは優しそうに、そして嬉しそうに微笑んで。
「ずっと待ってるよ、司郎」
そんな言葉と共に頬に与えられたキスのあたたかさを真木ははっきりと、まるで昨日の事のように覚えている。
■ □ ■
「――なぁんて事もあったね」
「……はぁ」
懐かしいなぁ、なんて呟く兵部をよそに真木は小さく溜め息をついた。
あの頃と状況はあまり変わっていない。
最初に女の子である紅葉が、その後おねしょの心配も夜泣きもなくなった葉が個室を与えられてからもう十年あまり、昔のように全員で一つのベッドに寝る事はなくなった。
でも時に真木の寝室に兵部がやってくるのは変わらない。もちろんその目的はあの頃とは大きく変わっていたけれども。
そしてあの頃と同じように、夜半に寝室を抜け出した兵部が月を見上げている事があるのも変わらない。
その度に真木がブランケットを手にベランダに向かうのも。
昔と変わらない。
もっとも、やり取りの詳細は昔とはかなり異なるけれども。
「あの頃君はまだ小さくて、僕の腕にすっぽり入ったのにね」
「湯たんぽとか言われてましたね」
背丈も手足も足りなくて、兵部に包まれているしかない小さな自分が少し悔しかったのを覚えている。子供な分、体温が高かったのが少しも役に立ったくらいだ。
「あの頃の君はほんとに可愛かったな、僕しか見てなくてさ」
「それも昔から変わらないでしょう」
からかうような口調に唸りながら返す。
「わー、真木ってばほんとに僕の事愛しちゃってるんだね?」
「……あなたは、パンドラのリーダーなんですから」
「それだけ?」
「そ…それだけです」
じっと見つめてくる闇色の目にどきりとしながらも出来るだけ表情を変えずにただ頷く。見透かすような視線に、ついさっきまでその身体を抱いていたのだという事を忘れてまた欲しくなってしまうのを懸命に自制する。これ以上兵部に負担は掛けられない。
こほんと咳払いをして、真木は改めて兵部に向き直った。
「とにかく、冷えてしまいますから部屋に戻ってください」
「やだよ」
真木の言葉にこれ以上ないほど短い返事とともに銀髪が揺れる。
「もう少し月を見ていたいんだ」
「では、これを」
そう言うと予想はしていたからこのくらいでは目くじらを立てる気にはならない。怒る代わりに真木は手にしていたブランケットをその肩に掛けた。
「重いよ」
払いのけようとするのを先制してブランケットごと兵部を包む。
昔は足りなかった背丈と手の長さを思い出して、平均より長身に育った事を感謝しながら。
「ダメですよ、あなたにはちゃんとあたたかくしておいてもらわないと困ります」
だって、と続ける。
「今はあなたが俺の湯たんぽですから」
そう言い訳して、真木は愛しい人を背中からそっと抱きしめた。
――翌朝、真木が冷水の張られた浴槽の中で沈みかけているのを葉が発見したが、彼は何も言わずにそっと浴室のドアを後ろ手に閉めたので、真木の救助は更に遅れたのであった。
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