北風と太陽




「脱ぎませんといったら脱ぎません!」
 真木は自らの襟元をぎゅっと掴んで喚く。
「なんでさ?もう我慢大会は終わったんだぜ?」
 一時間前と同じことを繰り返す頑固な部下を見下ろして、兵部は首を傾げた。


 全員汗だくで、しかも狭い密室に煮込みうどんと一緒にいたせいで服に醤油とダシの匂いが染みついてしまった状態で帰って来た三人(正確には二人と一匹だが)は、出迎えるなり大きく顔をしかめた紅葉によってそれぞれシャワーブースに放り込まれた。天邪鬼の自覚はある兵部もさすがにこの状態のひどさは判っていたのでのんびりと冷水シャワーで火照りを冷まし、ついでに身体を洗ってかつおだしのうどん臭を消し去ったところだ。
 用意されていたバスローブを緩く羽織って、でもまだこの気怠い感覚を味わっていたい。
 ……というより、まだ思いっきり怠い。動きたくないくらいに。
 そんなわけでベランダへ通じる窓を開けてややひんやりした空気を受けながら兵部は傍の籐の椅子に座った。
 元はリゾート開発目的で作られた建物だから、シャワーブースの奥の浴場だけでなく脱衣所も広く、大きな窓から海が見える。湯上りにのんびりするにはいい場所なのだ。
 
 
 ――ふと見れば真木が、なぜかまだいつものスーツ姿で入ってきたところだった。手にはハンドタオルを持っている。
「真木?」
 まさかまだあの汗びしょびしょのスーツのままかと顔をしかめたが、よく見ればネクタイの色が微妙に違う。手のタオルは桃太郎専用のもので、それを洗濯機に放り込む様子からして、シャワーを浴びてのんびりしていた兵部とは別に、さっさと汗を流すと再びいつもの格好に戻ってあれやこれやしていたようだ。
「水でもお飲みになりますか」
「うん」
 備え付けの冷蔵庫から真木が取り出したミネラルウォーターのボトルを彼がグラスに注ぐ前にひょいと取り去って(瞬間移動はこういう時も楽だ)、兵部は行儀悪く直接口をつけて大きく一口を飲んだ。冷たい水の流れ込む感覚にうっとりと目を細める。やっぱり、思っていた以上に消耗していたようだ。
 ……と、小さいのにやかましい生き物がいないのに兵部は気づいた。
「桃太郎は?」
「新しい真空管と一緒に久々津に預けてきました。もうすっかり元気でしたよ」
「やれやれ、あんなに大騒ぎしたくせに、小さい動物は元気になるのも早いんだね……って、なんだよ」
 口は生意気でも小動物だし、しかも戦前の生き物だ。多少は気になっていたにしても、元気を取り戻していると聞いてちょっとほっとした、なんていうのは表情としては欠片にも出していない自信がある。なのに黒スーツの男が口元を緩めるのが見えて、兵部はむっと口を尖らせた。
「いいえ、何でも。……少し妬けるだけです」
 仲がいいので、と付け加える部下の表情は口よりもずっと嬉しそうなもので、兵部は更に口を尖らせた。
 真木のくせに、まるでこの自分を見透かすような口ぶりだなんて、気に入らない。
 兵部は少し考えて、やり返しの糸口を見つけた。もちろんそれを逃したりはしない。
「ところで君はなんでそんなに脱ぎたがらなかったんだ?君は僕と皆本クンの勝負とは関係なくて、ただ見てただけだったのに」
「……それは、」
 と、急に真木が赤くなる。それを見て兵部の目がきらんと光った。あんな暑い中でも頑として黒スーツを脱がなかったのには、どうやら突っ込める理由があるようだ。
「それは?」
 ウキウキ聞き返すと真木もそれに気づいたらしく、口をむっと引き結ぶ。そして言うには。
「……言いたくありません」
「ほほーぅ?」
 と、兵部は軽く意識を集中させた。
 ネクタイの端がぴょんと跳ね上がったところで部下も気づいたらしい。はっとした顔で手がネクタイを押さえる。
「脱ぎませんといったら脱ぎません!」
 真木は自らの襟元をぎゅっと掴んで喚く。
「なんでさ?もう我慢大会は終わったんだぜ?」
 一時間前と同じことを繰り返す頑固な部下を見下ろして、兵部は首を傾げた。
 スタイルがどうの、というポリシーは確かにあるのかも知れないが、どうやらそれ以上に何かを隠してるらしいと判れば余計に知りたくなるのが人間の常だ。
 だが、と兵部は思考を修正した。
 ここにはもうあの小生意気なバベルの坊やはいない。手塩にかけて育ててきた子供をこれ以上追い詰めるのも、やり過ぎれば面白くない。
「……わかったよ」
 兵部は肩を竦めて見せた。途端、ほっとした顔をする子供を見つめて、ニッと笑う。
 と、次の瞬間、場所が変わる。
「少佐っ?」
 予定通りにベッドの上に落ちた真木がぼふんと弾んでから上体を跳ね起こすのを、その上から馬乗りに跨って押さえつける。
「な……な、な??」
 目を白黒させる部下を楽しく見下ろして。
「元はと言えば、君が僕を置いて出掛けようとしたのがこの件の発端だからね」
「……そこまで遡るのですか」
 呆れたように変わった表情にも兵部は悪びれない。だって。
「北風と太陽に出来なかったことでも、僕になら出来る」
 ニッと笑って。
「そうだろ、真木?」
 その目を至近距離から覗き込めば、欲情に色をわずかに変えるのが見える。こうなれば後は少し待つだけだ。
「……はい、」
 低い返事とともに自分の背中に手が回るのを感じて兵部は満足して瞼を伏せた。


■ □ ■


「で?」
 ごろりと寝返りを打った兵部が頬杖をついて見下ろす中で、スーツの上着どころか全部剥がされた真木は渋い顔を崩さない。
 兵部は小首を傾げた。
「ぱっと見た感じ、別に変わったところはなかったけど?」
 それとも秘密でもあるのかい?
「そんなものがあなたに通用するはずがないでしょう」
 問いは不本意だったらしく、真木の口がちょっと尖った。こういう時だけちらりと見せる子供の名残が兵部は気に入っている。
「俺はただ、あのメガネにこれを見られたくなかっただけです」
 と、くるりと真木が兵部に背を向ける。その逞しい背中に何やら縦に薄く赤い線が入っているのに兵部は気づいた。ただしもうカサブタになっている。新しい傷ではないという事だ。
「……それって」
「一昨日の夜のです」
 渋い顔の真木の頬が微かに赤い。
 なーんだと兵部は呟き、
「お前、そんなの気にしてたのかい?」
と、がっくりと真木の肩が落ちるのが見えた。
「……他人に見られるものでもないかと」
「いいじゃん、お前は僕のものなんだから、あんな普通人のロリコンに見られたところで恥ずかしがる事なんか全然ないんだぜ」
「は……恥ずかしが……っ」
 言葉に詰まったのか口をパクパクと開閉させる。
「いえそうではなくて、俺はあなたの名誉のためにですね」
「そんなの別に気にしなくていいのに」
 そんな真木を放って兵部はマイペースに続けた。
「僕はやりたい事はやるし欲しいものは手に入れる。お前とは僕が望んでこの関係なんだ、誰に隠す必要があるのさ」
 いっそ見せ付けてやればいいのに、と笑うと、今度こそ茹でタコのように真っ赤になった真木が喚く。
「……あなたは、男の気持ちが判ってません!」
「君が純情すぎるんだよ、真木」
 懸命に言ったのだろう台詞ににっと笑って言い返すと、がっくりと項垂れる真木が楽しくて仕方ない。なので兵部は手を伸ばすとその髪を一房掴んだ。
 そのままぎゅっと引っ張って距離を詰めて。
「さて、続きをしようか」
「は?」
 囁けば目を丸くする子供を見下ろしてにっこりと笑いかける。
「まだ一回しかしてないだろ、せっかくこんな手間掛けてお前を脱がせたんだ、その分楽しまなきゃ」
「ちょ、…少佐っ」
「まーまー、いいからいいから」
 僕に任せておけよ、とか言いつつ鼻歌混じりで圧し掛かる兵部をもちろん真木が引き剥がせるはずもなく。
 場面はもう一度暗転するのである。


■ □ ■


 結果として、その夜から真木は熱を出して寝込んでしまったのだが、もちろんその理由は我慢大会の後遺症という事になった。
 見た目より軟弱だのオッサンだからだのと、葉や桃太郎にさんざんからかわれたが、もちろん本当の理由を言えるわけもない気の毒な部下はただひたすら無言で聞き流し、全部で三日三晩もうなされていたらしい。
「……誰がなんといっても……もう脱ぎません、」
 もっともこの呟きを聴いたのは兵部しかいなかった。
 真木にとっては不幸中の幸いなことに。



兵部キャラソンのドラマ編:兵部の休日〜パンドラの一番熱い日〜から。
誰でも考えそうなネタなので、急いでUP!(笑)
最後の真木の台詞、本物より一言増えてるのが自分的ツボです。(って説明しなきゃならないオチってどうよ……)