「少佐は?」
「一人で風呂に行きました」
「……いやに長いな」
部下の答えに真木は眉根を寄せた。
最近の体調の悪さは誰よりもよく知っている。
服用量も服用時間も気にせず、気の向くまま、症状が落ち着くまで飲み続ける薬の量は当然着実に増えてきているし、他のメンバーには見せないが、熱を出して寝込む事も多くなっている。
さっきまでは特に変わった様子はなかったが、もしかしたら急に具合が悪くなった可能性もある。
心配で居ても立ってもいられず、つい早足で浴場に向かった真木は。
そこであまり見たくない光景を目にしてしまった。
「……子供みたいなことばかりしていないで早く出てください」
「いいじゃん、誰もいないんだから」
古式泳法だとか言い張りながら深めのお湯の中をすいすい泳ぎまわっている姿に真木はがっくりと項垂れた。
こっちがこんなに心配しているのに、いったい何をやっているのだこの八十歳は。
お湯が透明だからゆらゆらと揺れる水面を通して白い細い肢体が元気に動き回っているのが見える。
確かに見た目は十五歳だから一応子供の範疇に入るのかもしれないが、風呂の中で泳ぐ姿が微笑ましいと言うにはさすがに少々成長しすぎた身体だ。しかも抜けるように白い肌のせいか、無防備を通り越してあけすけな格好でも色気満載だ。
「湯船で泳いではいけないって習いませんでしたか」
ついでにちらりと兵部の肩の上で寛いでる小動物を見る。小さな額に特製の手拭いを乗せてほんわかしているモモンガは幸せそうで、それ自体には文句は本当はないが、一度はルールを教えておかなければならないだろう。
「それに、ペット同伴での入浴も本来なら禁止です」
「そうだっけ?」
真木はこめかみに手をやった。なんだか頭痛がしてきた。
なんでこんなに分別というものから遠いところにいるのだ。そんなこんながついうっかりと真木の口を滑らせた。
「あなたは、ご自分の歳が幾つだか判ってるんですか?」
「……言ったな」
と、声がわずかに低くなる。
しまった、と気づいた真木が慌てて一歩を下がって、だがそんな抵抗は瞬間移動能力者には通じない。
「わっ、」
周囲の空間が捻じれる感覚に包まれた次の瞬間、真木は温泉の中に落とされていた。ばしゃんと水の跳ねる盛大な音と同時に温かい湯に腰辺りまでが濡れる。浴衣のままなのに。
「何をやってるんですか……って、……あ」
もしこんなところを他の客に見られたら怒られてしまう、と一瞬思って、そこで思考を訂正する。
旅館丸ごと貸し切りにしていたのを思い出したのだ。
他人がいたら兵部の静養にならないからだが、こうなると他人に迷惑がかかるから、という口実が使えないから非常に困る。
なんと言ったら兵部のこのものすごいお子様っぷりを窘められるのだろう。
忙しく考える真木を邪魔するように(ように、という単語は不要かもしれない)兵部が念動力で更にすぐ傍まで引き寄せた真木を見上げて薄く笑う。
「お前はひどい奴だな、真木」
「なぜですか?」
まだこっちの作戦が立っていない。が、兵部に話しかけられて無視できるほどの根性はないのでつい律儀に反応してしまえば、兵部は澄ました顔で言う。
「僕がこうやって地道に運動してるからこそ、お前もその恩恵に与っているのに」
「ど……、どういう事です」
なぜ自分がそこで引っ張り出されるのかと慌てた真木に兵部はだって、と続ける。
「僕が体固かったら体位が限られちゃうんだし、それに、こうやってこまめに運動してるからお前のでかいの入れられてもちゃんと締まりがい……」
「――わーーーーーっ!!」
咄嗟に真木は叫んでいた。
肩に桃太郎を――人語を解し、会話もできるモモンガを乗せているのを忘れているのだろうか。
「まだまだあるぜ、たとえば……」
だが兵部は平気な顔をして更に言葉を紡ごうとする。
「すみません俺が悪かったです!」
もうこうなったら謝るしかない。自分の言った事が一般常識的には間違っているはずはないのだが、なぜか兵部相手だと謝る立場になってしまう。真木にとっては七不思議だ。
「助かった事にここは貸し切りです、こうなったら運動でも水泳でも、好きなだけなさってもかまいませんから」
ほんの数分のやり取りですっかり疲れきった真木は重い身体を引きずりつつ、露天風呂の上がり口へと足を進めた。
大体にして本当は最初は自分は兵部の体調が心配だっただけなのに、いつの間にかこんなびみょーな話題に変わってて、……こんな事なら始めから入り口で待っていればよかった。
「のぼせないようにだけ気を付けてくださいよ」
「まぁいいけど」
と、兵部がきょとんと首を傾げる。
「……何出ようとしてるんだい?」
「あなたが入浴中、誰も来ないように入口で見張ってますから」
静養としてきてるのに、そんなのを忘れ去っているような、子供みたい……否、子供以下の恰好を他のメンバーに見られるのも避けたい、とは言いにくい。
と、ずぶ濡れになった浴衣のまま湯から上がろうとしたところで不意に体が動かなくなった。
「な……?」
首より上は自由で、慌てて背後の兵部を見やれば案の定、何かを企んでいる顔をしている。
嫌な予感に真木が身体を竦ませたのをよそに、兵部が肩のモモンガに話しかける。
「おい齧歯類」
『ナンダヨキョースケ』
「お前が見張り」
兵部の言葉にモモンガはえええ、と不平そうな声を上げる。
『別ニイージャン、コッチニ入ッテクルノハドウセ同ジ野郎ナンダシサー』
普通の風呂は好きじゃない割に(塩素の匂いが嫌らしい)露天温泉は気に入ったらしい桃太郎がぶーぶーと抗議するのに対し、兵部はちょいちょいと指先でその首元を撫でて、そうすれば文句を引っ込めて桃太郎は気持ち良さそうに目を細める。
「僕もまぁ気にしないんだけど、でも真木がああ言うからさ」
『コイツ、イツモ口煩イモンナー』
「まぁ、彼の言う事もあながち間違いではないんだよね」
『ソウナノカ?』
「まぁ、大体はね」
だから、と兵部は頷いて続けた。
「それなら、見張りでもいないと出来ない事をやろうと思って」
「……は?」
次の瞬間、ショーガネェナァ、とちょっとエラそうな呟きを残して丸いふわふわの生き物の姿が兵部の肩から消える。少しお湯の入った木桶も同時に消えたのだが、今の真木にはそこまで認識する事はできなかった。
悪い予感に、それどころじゃなかったからだ。
「さてと」
もっとも、念動力で身体を動かせないようにされた真木に出来る事が他になかったというのもある。
「温泉でのルールを僕も教えてやろうか?」
セリフの最後にハートマークが付いていそうな表情の兵部が指先をちょいと動かした途端、真木の浴衣が大きくはだける。
「ちょ……少佐っ」
「服着たまま入っちゃいけないんだぜ」
こういう時だけ常識人ぶらなくても、と思う真木をよそに兵部がふと手を伸ばして真木の首裏に掌を当て、引き寄せられる。
体格的には本当ならそう簡単ではないはずだが(真木の心情としては逃げたい、の気持ちしかない)、念動力を併用すれば小指一本ほどの力も必要なく兵部は真木を引き寄せてしまった。
ひどく間近から闇色の瞳が真木を見つめて、そしてにやりと悪魔の笑みを浮かべて宣言する。
「じゃあ、見張りがいないと出来ない事をしようか」
「少……っ、」
それは温泉では一番やってはいけないことです、との真木の叫びは、噛みつくような兵部のキスにかき消された。
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