真夏の夜の夢

 


 その夜は満月だった。
 丸く大きな月が空と海の両方に大きく輝く綺麗で静かな夜に、兵部はただ静かに中空に佇んで水面を見下ろし、そして一輪の白い花を海へと落とす。
 波の音しか聞こえない静寂。
 月の光に銀色の髪はそれ自体が淡い光を発しているかのように輝き、その身体の輪郭は夜の闇に滲んで見えた。
 それに気づいたら居ても立ってもいられなくなった。
「……きょうすけっ」
 言われた通りに少し離れた砂浜で静かに待っているつもりだったのに、つい声を跳ね上げて、そして真木は地面を蹴っていた。
「どうしたの、司郎」
 慌てすぎて炭素製の翼でも上手くバランスが取れなくて半分傾きながらどうにか兵部の傍まで飛べば、白い貌が振り返って、そして真木の手をとって引き寄せてくれた。その腕にしがみつく。
「京介……」
「ああごめん、夜の海は怖かったかい?」
「違うよ」
 大きく左右に首を振る。実験施設から兵部に助け出されてまだたった数ヶ月の自分は世界の事をまだ何も知らないけれども、それでももうそんな子供じゃない。
「そうじゃなくて、なんか……」
 真木は続ける言葉を捜して、そして困って視線を揺らした。
 感じた不安を上手く言葉に出来ない。
 実験施設を破壊して真木を救い出してくれた時の兵部は目を見張るほど強く大きく感じたのに、でも今の兵部は月の光の中でひどく頼りなげで儚くて、まるで消えてしまいそうに見えて。
 なんて言えばいいのかと逡巡している内に、ふと白い手が伸びてくしゃりと髪がかき回された。
 見上げれば白い綺麗な貌が優しく笑っている。
「大丈夫だよ、僕がちゃんといるから」
 だから怖くないよと続けられる。
「……うん、」
 その言葉は少し的外れだったけれども、そうは言えない真木は曖昧に頷き、そしてもう一度兵部の腕を掴む手に強く力を込めた。
 傍にいるよと言いたいのは兵部よりも自分だったから。
 もっとも、今のこの小さな手では、しがみつく力が強くなったようにしか兵部には思えなかったのかもしれないのだけれども。
「大丈夫だよ」
「……うん」
 繰り返される優しい言葉に何度も頷き、静かな夜の海とそこに沈んでいく大きな月をただ見つめて。
 その頃の真木は、兵部が海へ落としたその白い花が死者を悼む意味を持つ事さえまだ知らなかった。
 ……そんな幼い頃の記憶だ。


■ □ ■


 ――ずっと水面を……そしてその奥に沈む無数の魂を見つめていた細い背中が捻られ、くるりとこっちを向く。
 ようやく自分達を見た白い面差しには危惧したような暗い色はなく、内心でほっと安堵した先で兵部の姿が不意にそこから消える。
 まさか、と慌てた先で白い砂浜の上に細い身体がふわりと着地するのが見えた。半袖のシャツの前を大きく開けて、白い滑らかな肌と、そんな白さに似つかわしくない二つの無残な弾痕を無造作に光に晒したまま、銀の髪を大きくかき上げて。
「さ、」
 と、明るく朗らかな声が彼から発せられる。
「せっかく来たんだ、たっぷり遊ぼう」
 沖合いでの兵部の行動を見てもその意味が判らない年少組の子供たち――戦争を知らない子供たちが兵部の言葉に一際顔を輝かせる。
 誰も来ない小さな無人島に歓声が響いた。


■ □ ■


「つ…疲れた……」
 そんな言葉とともに兵部がばたりと簡易ベッドに倒れこむ。
「背中がひりひりする……」
「この直射日光の下であれだけ騒いでいれば当たり前です」
 まったく、と真木は大仰に溜め息をつきながらグラスに冷えた水を注いだ。差し出しかけたところで手の中から冷たい感覚が消える。行く先を見れば兵部がグラスを口元へ運ぶところだ。
「だってせっかく来たんだからさ」
 半分ほどを一気に飲み、それから兵部が口を尖らせながら肩を竦めてみせる。その細い肩にはいつものふわふわした塊はいない。桃太郎に久しぶりに会った年少組の子供たちのテントに引っ張り込まれたからだ。
「たっぷり楽しまなきゃ、ここまでわざわざ全員で来た意味がないだろ?」
「それはそうですが、別にあなたが先頭をきらなくてもよろしいのではないですか」
 遊びでも仕事でも、金に糸目をつけない兵部のやることは大体派手だ。
 今いるのも、テントと言っても登山などで使うようなちゃちなものではなく、遊牧民が生活するような大きめの天幕だ。それを複数持ち込んで砂浜のあちこちに立ててキャンプとしている。砂浜でのバーベキューは子供たちには好評だったし(この面子だと炭にも火にもこと欠かない)、ここまでの移動に使っている小型客船の船室ではシャワーも浴びられるからほとんど不自由はない。
「日光浴くらいに抑えるとの考えにはならないのですか?」
 もう八十を超えた身で十歳前後の子供達と同じ勢いで遊ばなくても、と思うのは普通の感覚のはずだ。だがもちろん、そんな事を聞く耳を持っている兵部でもない。
「明日は何しようかな、スイカ割りはやっちゃったから、……ビーチバレーでもするか」
「……あなたは見物の方向にしてください」
「やだよ」
 ……このお子様が。
 窘めにも案の定の台詞が戻り、真木は眉間のしわを深めた。
 この時期に日本へ帰ろうと言った兵部の真意は六十年以上前の記憶によるものだとしても、目的の何割かは久しぶりの日本でのリフレッシュと日本に残していったパンドラの子供達との触れ合いだ。
 それ自体は歓迎すべき事でもある。
 だがなぜこうも限度とか年齢を弁えないで動くのだろう。真木にはそれが不思議でたまらない。
 十五の外見に相応しく、と言うべきか、気ばかり若い――というより大人になれないのか、あるいは、大人になりたくないのか。
 おそらく後者なのは判っていて、そんな背景もおおよそ想像はついているし、そんな兵部を切なく思ってもいるが、それにしても、と思ってしまうのも無理はないはずだ。
「さーて、寝るかなぁ」
 と、そんな真木の思考を揺らすように兵部が大きく伸びをする。
 その拍子に大きく開いたシャツの胸元からちらりとそれが覗いた。長く時間の掛かった治癒の際に皮膚が大きく引き攣れた銃創だ。軽い傷なら簡単に、しかも痕跡も残さずに治してしまう兵部だが、この傷はずっと残っている。まるで烙印のように。
「……そうしてください」
 少し前から兵部とはそういう関係でもあるから、この傷も真木にとっては珍しいものではない。だがそれでも見慣れる事はなく、白い肌に刻まれた烙印はいつも真木の胸を締め付ける。もちろんそれは同情ではない。そんな安っぽいものを兵部は嫌うからだ。
 真木は努めてそこから目を逸らした。そのまま何かを振り払うように大きな動作で立ち上がる。
 我ながら、らしくない行動に兵部が首を傾げる。
「真木?」
「……水をよく飲んで、今日はゆっくり休んでください」
「お前は?」
「ちょっと、子供たちの様子を見てきます」
 訝しげな眼差しを向ける兵部を置いて、真木はテントの出口をくぐった。


■ □ ■


 幹部用の天幕をくぐると、二対の目が真木を出迎えた。
「少佐はどう?」
「あまり変わらない。……思ったより安定しているようだ」
「ならいいけど……」
 サングラスを外した紅葉の目はまだ不安そうだ。
 その彼女の肩を真木はぽんと叩いた。
「我々がうろたえてどうする」
 呆れるほどの子供っぽさはあっても常はリーダーらしい言動で皆を率いている兵部だから、その背景にある心の傷をいつもは思い出さない。だが忘れかけていたその存在を思い出せば、彼に育てられた子供として不安が強くなるのは仕方ない。
 だが一番長く彼を知っている自分がそうなるわけには行かないし、それは幹部である紅葉も同じ事だ。
 あの傷はもう六十年以上も前から彼に刻まれていて、今更大きくなったりも深くなったりもしない。少なくともそのはずだ。
 だからうろたえたり不安になる必要はない。正確には、そうなってはいけないのだ。
「なぁ真木さん」
 紅葉に言っているようでその実は自分に言い聞かせる中で、葉の声に目を上げる。と、何かを考え込んでいる目と出会った。
「ボスのアレ、真木さんは知ってたの?」
「……まぁな」
 真木は小さく頷いた。
「まだ俺が小さかった頃、一度ここに連れて来られた事がある」
「ふーん」
 こちらもまったく戦争を知らない世代である(別に真木が知っているわけでもないが)葉が納得したような顔で頷いた。
「じゃあ増えたんだな」
「何がだ?」
「人数」
「それは……そうだな」
 葉の言いたい事はよく判らなかったが、端的に考えて、ここに兵部が連れて来た人数は昔よりは増えた事になる。曖昧に頷けば葉の懸念はさっくりと消えたようだった。
「じゃあ大丈夫じゃん」
「なにがだ?」
「紅葉、とりあえず行こうぜ」
 立ち上がった葉が紅葉を手招いて海を示す。
「葉?」
「花はないけど、俺たちも黙祷だけでもしてくる」
 意味が分からず立ち尽くしている真木を置いて天幕を出ていく葉が最後にひらりと手を振る。
「あんたはボスについててやってよ」
「葉……」
「俺、あの人の複雑骨折してる思考回路はよく判らないけど、真木さんだけじゃなくて、俺たちやチビどもにも見せたんなら、それってずいぶん良くなってるって事だと思うから」
 だから、と葉は面白くもなさそうな顔で肩を竦める。
「真木さんがいれば十分だろ」
 ドア代わりの布を下ろして出て行く際に、悔しいけど、とか呟かれたような気もする。が、真木は敢えて問い質しはしなかった。
「そんなものだろうか」
 一人になった空間で呟く。
 葉の言わんとするのは、つまりは心配しすぎという事だろう。
「……そんなものなのかもな」
 少し考えて小さく頷いた真木もまたテントを出た。
 自分よりも年下の葉に不安を見透かされた上に、いつもは独占欲が強い彼から兵部についていてやれ、なんて言われるなんて。
 悔しいのはこっちかもしれない、なんて思ったのはもちろん秘密だ。


■ □ ■


「…………」
 葉の言葉に背中を押される形で戻ってきた兵部の天幕の前で真木は一度足を止めた。
 真木に促されたとおりの行動をしているのなら、兵部は今頃は簡易寝台で眠っているはずだ。人の提案にはとりあえずは反抗してみせる兵部の事だからそうでない可能性も高いが、さすがの彼も今日はかなり疲れているはずだ。
 だとしたら邪魔をするのは躊躇われる。
 中に入ろうとして少し考え、そうして結局天幕の布を持ち上げかけた手をそっと下ろした。その代わりに真木はテントの前の砂に座り込む。
 眠っているかもしれない兵部を起こすのは忍びない。だが出来るだけ傍にはいたい。妥協点がテントの前だ。ここなら番犬のごとく兵部を妨げることなく傍に居られる。たとえそれが自己満足に近いものだとしても。
 と、そんな自嘲気味な思考で一つ溜め息をついたところで。
「何やってるのさ」
「……少佐」
 不意に目の前に音もなく現れたのは天幕の中に居るはずの兵部だった。人の言うことを聞きもしないで、と眉を吊り上げようとして、だが結局は真木はやめた。
 言ってきくような人ではない。
 案の定、真木の睨む視線など気にした様子もなく兵部が海へと首を巡らせる。
「ちょっと付き合えよ」
「は?」
 そんな言葉と同時に目の前の世界が変わった。
「……って、ここは……」
 波がゆっくり寄せては返す銀色の砂浜からもっと沖合いだ。
 翼を作って中空に浮かんだ形の真木は目を瞬かせた。
 これは、あの時と同じ光景だ。
 空は大きな満月で、波の音がうるさくて、なのにひどく静かだ。
 兵部はと見れば、真木よりももう少し沖にいた。
 中空に佇む彼の背中はひどく小さく頼りなげに見え、月の光の下で銀色の髪は淡く輝き、その細い身体の輪郭は夜の闇に滲んで見える。
「少佐……」
 今なら、兵部に初めて連れられてここに来た時の不安の理由が判る。
 海に花を手向ける兵部の中で、戦後はまだ終わっていない。
 まだ彼は死者に心を残している。
 自分が救えなかった人たち、一緒に戦って死んでいった者達。
 そんな無数の誰かを悼んで兵部は花を投げる。
 毎年毎年、もう六十輪以上の白い花を。
 いつか海から手が出てきてその花を受け止めるのではないか。
 いつかその手が兵部を連れて行ってしまうのではないか。
 未だに過去を断ち切れない兵部には誘うその手を拒めないのではないか。
 あの頃、確かにそんな不安が幼かった真木を突き動かして懸命にその手を掴んだのだ。
「知ってた?」
 と、兵部が海を見たままで口を開く。
「生きている者が死者にあまりにも強く心を残すと、その魂はいつまで経ってもこの世界に留まってしまって、浄化されないんだってさ」
「しょ…ぅさ、」
 まるで心を読んだかのような言葉にどきりとする。それぞれの念動力で上空に浮かぶ自分たちの間には距離があるから透視はされていないはずなのに。
「だから僕が昔の仲間を思い出すのは、彼らの魂が現世に戻ってきているこの時期だけなんだ」
 そんな真木をよそに兵部は淡々と、呟くように続ける。
「それがこの時期――盂蘭盆(うらぼん)っていうんだよ」
「そう…ですか」
 そんな言葉でも少しほっとして少し肩から力を抜いた真木を見抜いたように兵部が笑って繰り返す。
「だから、大丈夫だよ」
 それはおそらく葉の言葉の通りなのだろう。
 忌まわしいはずの傷を隠さなくなったり、花を手向ける理由を口に出来るほどには彼はゆっくりと癒されている。
 完全に治る事は難しくても。
 そういう意味ではこの不安は的外れだ。……ただ。
「大丈夫だよ、過去に戻りたいわけじゃない」
「……はい」
 それでも不安が消えないのは、兵部の身体の線が細くて夜の空気に今にもとけて消えてしまいそうだからだ。
 でもそれは自分の不安感がもたらすもので、兵部自身にはそんな意識はないだろう。
 彼はいつでも『彼』だから。
 だから、行かないで、なんて言いたいけど言わない。
 そんな子供の言葉を飲み込んで封印するように唇を噛む。
「……真木」
 と、兵部が目だけで微笑むのが判った。そして不意に姿が消え、次の瞬間目の前に白い顔が出現した。
「まだ不安なら、いつでも僕をつかまえてろよ」
 こうやって、と、兵部の手が真木の手首を掴んで自分の背に回させる。そうすれば必然的に兵部を抱きしめるような形になって、だがこれでは不安で彼にしがみついていたあの頃と変わらない。
 だから。
 真木は一度身体を離した。
「出来るものならそうしたいですよ」
 ずいぶん昔になってしまったあの日に兵部へ縋るように伸ばした手も腕も今はもうずっと大きくなって、彼をすっぽりと抱きしめる事だって簡単だ。彼の手を掴んで離さないどころか、自分の能力でなら文字通りに拘束することだって容易だ。
「でも、俺たちなんかに動きを制限されているようなあなたではないでしょう」
 兵部はしたい事をするし行きたいところに行く。
 それはパンドラの誰にも止められない。
 それが兵部だからだ。
 そして、と真木は自分に言い聞かせる。
 そんな兵部が今更、過去の亡霊に囚われて戻りたがるはずがない。彼はその誘惑を一年前に断ち切ったのだ。
「ですから、しがみついたり引き止めたりはもうしませんよ」
 だから真木はその兵部を信じる。
「その代わり、俺たちは絶対に、傍にずっといますから」
 あなたの思う未来へついていくだけです。
「それで俺達は充分なんですから」
「……うん」
 いつもの彼らしくもなく、どこか真摯に兵部が真っ直ぐ真木を見つめて小さく頷き、それからふわりと微笑む。
「ほんとに、……大きくなったな」
 あの頃は腕にしがみつくしか出来なかった身体を、今ではもう自分の方が首を大きく曲げて見下ろすほどに変わって、でも兵部の言ったのがそれを指しているのではない事は判る。
「もう子供じゃないですから」
 どうやっても年齢は追いつけない。経験も足りないし兵部の考えについていけない部分も正直言えばある。
 でも、それでももう子供ではない。庇護を受けているばかりではいたくない。色々足りない分は努力で懸命に補って、そして兵部の支えになるのが真木の目標だ。
 いつもさっさと先に行ってしまう彼を追いかけるのは結構大変だけれども。
「そうだね、」
 いつもなら子供じゃないと言う度に笑って幼い頃の思い出とかを口にして真木を揶揄するはずの兵部は、だが今夜は珍しくそれをしない。
 代わりに黒い瞳が柔らかく瞬いて。
「じゃあ、今夜は僕から頼もうかな」
「何をです?」
 珍しい言葉に見つめる前でゆっくりと白い瞼が閉ざされる。
「キスして、……真木」
 なかなか聞けない甘い言葉に当然否は無い。真木は上体を屈めて、その薄赤い唇に恭しく口付けた。


■ □ ■


 ……で、その翌日。
 昨日と同じ眩しい陽射しの下、なぜか昨日とは雲泥の渋い顔をした兵部が砂に斜めに差した大きなパラソルの下からまったく出てこなかったり、この暑さの中でなぜかシャツのボタンをきっちりしめたままだったり、とちょっと謎な現象に年少組が首を傾げる横で。
 ちょっと目を据わらせた若干数名の大人が幹部その一である真木を強い陽射しの照りつける砂浜の一角に正座させた上で何やら糾弾したりしてたのだが、……それもまぁとある日の楽しい思い出なのである。多分。





この時期だけ『超能力者』ではなく『日本人』に戻る兵部を書こうと思って始めたのですが、真木は思った以上に少女漫画的思考の人でした……。
葉の方がずっと男前になっちゃったよ!(笑)
衝撃のサプリを見たときから考えていたネタを書いたのになかなか上手くいかず、今もちょっと後悔……。突発ネタは勢いのまま書かないとUPまで持ちこめないもんですね、超反省です。