飴でもなければ鞭でもなく



 サイドカーつきのバイクでネストに戻ってきて、まず真木がしたのは兵部の手当てだ。
 渋るのを宥めすかしてようやく脱がせた学生服の下の白く滑らかな肌のあちこちに惜しげもなく傷を作っている光景に怒りのあまり手が震えた。
 あの黒い幽霊のガキをどさくさにまぎれてでも一発殴っておけばよかった、と内心で歯軋りする。記憶がなかろうと他人に操られていたのであろうと、たとえどんな理由があっても兵部を傷つけた事は、真木にとっては万死に値するのだ。
 そしてこんな危険な相手へと一人で向かった兵部は黒い幽霊以上に最低だと思う。
 相手は兵部を殺す事にまったく躊躇いがなかったのに、ターゲットの一人にもなっていた兵部の方はぎりぎりまで彼を救おうとした。しかも、誰も巻き込むまいとたった一人で相対したのだ。
 その意識の差がこうやってあちこちの裂傷となって現れている。
 このくらいの怪我ですんでよかった、と安堵する気持ちと、これほどの怪我をさせてしまったという自責の念とが混ざって、真木の頭の中は混乱寸前だ。
 口を開いたら何を言ってしまうか判らないから、真木はひたすら口を真一文字に引き結んだままで救急箱を開けた。


 真木が声にもならないほど怒っているのは判っているらしく、しばらくは黙っておとなしく手当てを受けていた兵部だったが、頬にガーゼを当てられたあたりからいつもの調子でもぞもぞ動き始める。
 消毒が沁みると文句を言いながらTVをつけてやたら騒々しいバラエティ番組にまわし、左腕を包帯でぐるぐる巻かれながらもう片手で(念動力で)キッチンから引き寄せた炭酸のペットボトルをラッパ飲みしている兵部に、さすがの真木も額に青筋が浮かんだ。
「……はい、これで終わりです」
「ちょ、……」
 最後の包帯の始末をやや強めに、しかもちょうど傷の真上できゅっと結んだのはちょっとした意趣返しだ。これだけひどい怪我をして、どうしてまったくなにもなかったような顔をしているのか。こっちをこんなに心配させたくせに。
「痛い、真木」
「……ああすみませんでした」
 実際の手当ての間は平気そうな顔をしていたくせに、こういう時だけ柳眉をきゅっと寄せる年上の少年に、努めて素っ気無く返した真木はぷいと顔を逸らして救急箱の蓋を閉めた。
「わざとですが、一応謝っておきますね」
「……なんでそんなに機嫌悪いんだよ」
「知りません」
 じっとこっちを見上げてくる視線を背中で避けていれば、兵部が一つ溜め息をつくのが聞こえた。
 ここで普通の相手なら下手に出てくれるはずなのだが、そうでないのが兵部の兵部たる由縁だ。
「……そう言えば齧歯類に聞いたけど、女王は君を振り切ったんだって?」
「……はぁ」
 嫌な事を思い出させる言葉に真木の顔色はまた曇った。
 そう油断していたわけでもないのに、彼女へ向けて放った炭素繊維をことごとく断ち切られたのは、それなりにショックな事だった。
 こちらは単に動きを押さえるだけのつもりだったとは言え、しかも将来自分達を統べる存在になるとは言え、まだあんな子供にしてやられるなんて。
「まぁ仕方ないよ、彼女のあれは僕が教えたんだから」
「……そうですか」
 真木の落ち込む理由を正確に察したらしい兵部の言葉についほっとしてしまった自分に気付いて、真木は眉根をもう一度寄せた。そんな言葉でほっとしてしまうなんて、あまりにも単純すぎはしないだろうか。
「それに、…まぁちょっと悔しいけど彼女が来てくれたおかげであの桁違いの催眠能力を解けて、あの子も死なないですんだわけだし、結果オーライなんじゃない?」
 こういう時だけ楽観主義者のような口ぶりで兵部が肩を竦めるのを横に、逆に真木は肩を落とした。
「ですが……」
 まだ内省を続ける真木の言葉が途切れたのは彼の意思ではない。兵部が自身の唇でもって強引に真木の言葉を遮ったからだ。
「……少佐、」
「ウジウジ考えているより、とりあえず目的は達成できたんだから、少しはその仏頂面を直せよ」
 こういった接触はさすがに初めての事ではないが、それでも慣れているわけでもない。
 少ししてまた距離を作り、固まってしまっている真木を見下ろした兵部が赤く色づいた唇をぺろりと舐める。
「目的が達成出来て、しかも僕はちゃんとお前の前にいるのに、お前ってばまだ何か必要なのかい?」
 くすりと笑って。
「それともまさか、僕よりも彼女の方が気になるとか言うんじゃないだろうね?」
「……そんなわけがないでしょう」
 その物言いに真木は憮然とした。
 頭の中は常に兵部でいっぱいで、彼というフィルターを通してからでなければ物事をマトモに考えられないという自覚のある身には、兵部の言葉は色々不本意だ。だがそんな抗議さえ言葉としては紡ぎ出す余裕がない。
「……ああもう、」
 真木の心を見透かすように薄く微笑んだまま、じっとこっちを見上げているだけの兵部との距離感をどう掴んでいいのか一瞬迷い、そして真木の理性はあっさり白旗を上げた。
 確かに、兵部の言葉通りだ。
 目の前にどうにか無事な(多少の怪我はあるが)兵部がいるのに、他に何が必要だというのだ。
「少佐……」
 顔を寄せれば白い瞼が伏せられて、許されているのだと判ればもう我慢できなくて。
 真木は何より大事な存在を腕の中にそっと抱き込んだ。
「……ところで、一つ質問なんだけど」
「なんですか?」
 と、一度唇を離したところで兵部が何かに気付いたように視線を上げる。その表情に、訊かなければよかったと真木が思った瞬間には遅かった。……まぁ大体いつもそうなのであるが。
「お前の唇、すごく塩辛いけど他にも何かあった?」
 赤く濡れた甘い唇はそんなひどい事を言ってにやりと笑った。





よく飴と鞭とか言いますが、ちょっと微妙にどっちでもないカンジを目指してみました。
某所のアニメ兵部祭りに追随しようと捻り出したものですが、アニメ全然関係ないです……。
アニメじゃなくて原作じゃん!(笑) しかも全然意味ないし。
いやつまりは、少しでも更新頑張ろうという心意気だけでも示したかったというわけで。
あ、今日中に更新すると言ったのにあと四分しかない!勢いだけで更新です!
(あとで後悔したら削除します……;;;;)