バレンタインデイ


 バレンタインなんて、所詮年端もいかない女子供のイベントの一つである。

 ……と、真木司郎は自分に呟いてみた。
 だから、誰からももらえなかったとしても、全然気にしたりしないのだ。
 気にしない。全然。まったく。
 気になったりはしないのだ。



 ――真木が兵部の下に来たのは、まだ十代前半だった頃だ。
 正確な年齢は、自分では判らない。物心がついたときには既に真木は一人だったし、自分を生み育てたはずの温もりの記憶もかなり遠くなっていた。
 この日本でも超能力者の子供がたった一人で生きる事は難しく、空腹を満たすだけで精一杯だった中で、名前を覚えていただけでもマシな部類だろう。
 兵部が連れてきた中には、名前どころか記憶さえもない子供達もいた。
 彼らに住処を与え、名前を与えるのが兵部の常だった。
 兵部以外はほとんど子供ばかりの集団で(兵部だって見た目だけなら充分に子供の範疇だ)、比較的年長だった真木はすぐに彼らをまとめる役を与えられた。
 それでも真木もまだ子供だったから、普段はなかなか会う事の出来ない兵部がクリスマスとかこういったイベントの時にだけは必ず現れて、小さな何かをくれるのが嬉しかった。
 甘いものを得意としない真木にとっては兵部の手からもらう、という行為だけが楽しみで、だが真木が兵部の背丈に追いついた頃から、兵部は真木をその庇護下から外した。

 バレンタインなんて、本当はどうでもいいんだよ。
 ある時そう呟いた兵部がチョコレートを好きでない――正確には食べようとしない事は知っていた。
 ほかの甘いものには目がないくせに、チョコ関係には絶対に手をつけない。
 昔色々あってね、と遠い目をした兵部がひどく遠い存在に思えて、切なく感じたのも懐かしい記憶だ。
 だがそれは今も変わらない。
 兵部が視ているのは、遠い過去であり、そして遠い未来だ。
 手に入れられなかった過去と手に入れられない未来。
 そんな兵部にとっては、現在は何のためにあるのだろうか。
 ……判らない。
 真木にはまだ兵部の視るものの全てを見る事は叶わない。
 ただ判ってるのは、今の彼はエスパーの未来のために生きているということだ。
 だから、そんな兵部にとって、愛の告白のはずのバレンタインもパンドラに引き取った子供達を喜ばせる口実、でしかなく、兵部にとって何の意味もないイベントは、自分にとってもあまり意味のないイベントである。
 ……と、そう言い聞かせてはみるのだが。



「はい、葉にも差し上げてよ」
「あ、サンキュ」
「九具津さんにも」
「僕はモガちゃんの形のがいいんだけど」
「文句言うと、その人形の首だけ部分移動させちゃうよ」
 リビングの中央では、年少組を寝かしつけて戻ってきた何人かがきゃいきゃいと先ほどから歓声を上げている。
 紅葉や澪をはじめとする女性陣たちだ。
 彼女達にとって、おそらくもっともチョコを受け取ってほしい相手だったはずの兵部はちょっとした笑える(いやある意味笑えない)昔話に紛れさせて彼女たちを煙に巻いてしまい、リビングからは撤退している。
 真木はちらりと階上の一角を見やった。兵部の私室の方だ。
 先ほどそっちの方で何やら騒がしかったが、葉と紅葉が一緒にいたのなら、少なくとも兵部の邪魔はしていないはずだ。
 そう判断して真木は思考を切り替えた。
 パンドラの幹部の中では最年長として、やる事は多いのだ。
 ……バレンタインなんて、しょせん、女子供だけがはしゃぐイベントでしかない。
 ソファの端に座って、周囲の楽しげな雰囲気から自分を遮断するように書類を目の前に広げながら真木は自分にそう呟いてみた。


 ――と、そこに声が掛かった。紅葉だ。
「あ、真木にも渡すものがあったのを忘れていたわ」
「……なんだ?」
 期待を顔に出さないように殊更注意して顔を上げる。
 この中にはテレパスもいる。心を読まれてしまったら一生の笑い者だ。
 パンドラのメンバーはえてしてそういうところには容赦ないのが多い。トップがトップだからかもしれないが。
「これ、この間頼まれていた本」
「………………」
 そして紅葉からにっこりと満面の笑みで差し出されたのは反エスパー組織である『普通の人々』の賛同者の一人が書いた本だった。
 パンドラの活動を行っていくためには敵の情報も重要だ。
 だからもちろん欲しくて頼んだものではあったが、今この瞬間に渡さなくても、と思うのは男としてのちょっとしたプライドの問題だ。もちろんそれを顔に出したりしないが。
「……ありがとう」
 一応どうにか表情には出さずに礼を述べ、受け取ろうとした途端、その本は目の前から消えた。
「真木の部屋に送ってさし上げたわ」
「…………」
 手に入ったなら今からここで読もうと思ったのに。
 真木はすっくと立ち上がった。書類をデスクに戻し宣言する。
「……もう寝る」
「え、そう?じゃあお休み、真木」
「そうだよな、年寄りは早く寝たほうがいいよ」
 誰が年寄りだ、と言い掛けたが真木を見る彼らの表情を見てやめた。
 誰一人真木を引き止めるどころか、顔にさっさと出て行け、と書いてある。
 精神感応者ではない真木にだってそのくらいは判る。
 なぜだか今日に限って、連中は真木を邪魔者と思っているのだ。
「…………」
 非常に面白くない。
 真木は宣言通りに部屋を出た。念動力を使わず手で大きく音を立ててドアを閉めるのが精一杯の抗議だ。
 だがもちろんドアの奥からは何のリアクションもない。
 ドアを閉める直前に紅葉と葉が顔を見合わせ、プレゼントがどうこうと言いながらくすくすと笑っているのが聞こえたが、気にしないことにする。
 どうせ自分はもういわゆる『おっさん』の部類の年齢で、だから義理チョコの一つももらえないのだ。
 別にチョコレートが好きなわけではないし、もらいたい相手がいるわけでもない。
 ……ただちょっと、寂しいだけだ。
 そう思考が至って真木はぶるぶると首を振った。
 どうにも弱くなっている。これはよくない傾向だ。
 もう寝よう。寝てしまおう。
 そう自分に言い聞かせて自室のドアを開いた真木は、一歩を踏み出そうとして逆に一歩を飛び退った。
「悪いな、邪魔してるよ」
 真木の部屋なのに、その中にいたのは常に真木の思考の大部分を占めている人物だった。
「しょ……少佐?」
 しかも真木のベッドの上に長々と横たわって、手の中の本をぱらぱらめくっている。
 それが先ほど紅葉が瞬間移動させた本だという事など、その時の真木には気づく余裕もなかった。
 自室に戻っているはずの兵部がなぜ真木の部屋にいるのだろう。
「ど、どど、どうなさったんです?」
「どうしたもこうしたも」
 焦りでどもってしまう真木をよそに兵部は大きく肩を竦めてみせる。
「さっき澪たちが僕の部屋で大暴れをしてね、ベッドが細切れになっちゃったんだ」
 何かケンカでもしたらしくて、と彼は続けた。
「紅葉も葉も今日に限って止めないもんでさ」
「それでは、早速新しいものの手配を」
 ただの細切れならいくらでも直せるだろうが、澪の能力が最大限に発揮されたと考えればそれも難しいだろう。彼女は対象を分子レベルにまで分解して飛ばす事が可能なのだから。
 すぐに電話に向かおうとした真木の髪がツンと引っ張られた。兵部だ。
「その必要はないよ」
 曰く、すぐに葉が手配をして明日には届くのだという。
 安心した真木に兵部はにこやかに続けた。
「だから今日はお前と寝ようと思って」
「……は?」
 思わず耳を疑ってぽかんと口が開いた真木に兵部が目だけで笑う。
「構わないだろ?」
「もももももちろん、」
 NOと言われると欠片も思っていない兵部の言葉に、真木はがくんがくんと首が外れそうな勢いで頭を上下させた。


「……なんでそんな端にいるんだ?」
 長身な真木のベッドはもちろん大きめのものだが、それでも一応青年男子を二人乗せる目的では作られていない。
 ベッドの端ぎりぎりにずれた真木の意図が判らないのか、それとも判っていて言ってるのか、兵部が首を傾げて見せる。
「狭いでしょうに」
「もっとこっちに来い、枕」
 逃げ気味なのが気に入らなかったのか、ぎゅうぎゅう引っ張られる。その腕を絡ませられて真木の心臓が跳ねるのを、きっと兵部は判っていないのだ。
 枕まくら、と自分に言い聞かせながら天井を睨んで平静を保とうとする真木の横で兵部はすり、と猫の仕草で顔を寄せてくる。
「……懐かしいなぁ」
 ばくばくという心臓の音が聞こえてしまいそうな中で、兵部がくすりと笑いを零す。
「何が、です?」
「まだお前が小さかった頃、よく一緒に寝ただろう」
「……そうでしたか?」
「夜中にお前が泣きそうな顔でしがみついてきて、よく起こされたよな」
「……あー……」
 幼い頃の事をわざわざ口にしてニヤニヤと口端を引き上げる兵部はひどく楽しそうだ。こっちが思い出したくないことを知っているからこその意地悪なのだ。
「なのに今じゃ」
 こんなに大きくなっちゃって、と兵部が視線を上げてくる。
 からかう意味を含んだ笑みに思わず溜め息が零れた。
「そんな昔の事なんて、もう忘れたらいいでしょう」
「なんでだよ」
 頭を抱えて呻けば傍らの気配が拗ねるのが判った。
 真木は精神感応者ではないが、そのくらい判る。兵部の事なら。
「僕はまだそんな年寄りじゃないぜ?」
「ああもう、はいはい」
「こら、年上をバカにするなよ」
 いったいどっちなんだと言いたくもなるが、そうはせずに真木はただ兵部を見つめる。
 ……本当は。
 幼かったあの頃の自分をちゃんと覚えている。
 一人で眠れなかったのは真木ではない。
 時にひどく魘される兵部を一人にしたくなくて、一緒にいたかっただけだ。
 真木がしがみついたのではない。悪夢から抜け出した兵部が震える手で真木を抱き締めていただけだ。まるで縋りつくように。
 まだ真木の手が小さかったから、兵部を抱き締めてやる事が出来なかっただけだ。
「……もう眠ってください」
「うん」
 そっと銀の髪を撫でて促せばおとなしく兵部が目を閉じた。
 光を放たない闇色の瞳が瞼の奥に隠れるとその顔は驚くほど幼くなる。
 表情が少し和らいだのを見てとって真木もその傍らに身を横たえなおす。
 なんせ今夜は自分は兵部の枕なのだから。
 そう言い聞かせていると言うのに。
 ふと、もう一度ぱちりと目が開いて。
「怖い夢を見たら僕を起こしてもいいぜ」
「……はいはい」
 ニッと笑ってみせる自分よりずっと年上の少年の姿に苦笑を押し殺せたのは真木としては上出来だった、と言えるだろう。



 翌朝、普段どおりに目を覚ましていつもどおりの笑みを見せる兵部と、明らかに目の下に隈を作ってげっそりしている真木の間に何があったかという事なんて――正確には、何もなかったという事なんて――きっと精神感能力者でなくても判ってしまうわけで。
 こっちを見た葉が呆れたように眉を引き上げ、そんなんなら取っちまうぞ、と呟かれたり、通り過ぎざまに紅葉に、甲斐性なしとか小さく罵られたような気がしないでもないが、すぐ傍に兵部の体温とか寝息とかを感じていられた夜はそれなりに幸せだったので。
 ホワイトデイにはクッキーやら何やらを子供達どころか葉たちにまで律儀に配って歩く真木の姿があったのだった。



身長も見た目もすっかり逆転してるのにいつまでたっても父とか兄貴のつもりの天然ボケな兵部(そんなもんいねぇという突っ込みは勘弁……)と、兵部が好きでそんな穏やかな関係じゃいられないけど、まだそこまで思い切れない優柔不断の真木で書いてみました。個人的には、葉くんも兵部の事好きだといいなぁ(三角関係ってわけではない感じで)。
年下x年上+部下x上官のコンボは超萌えツボなんですが、でも同じくらいパンドラファミリーが好きなので(澪ちゃんとか大好き)、この二人ではしばらくこんなエセファミリードラマ的な話になってしまいそうです……。
てか、兵部が幸せならそれでいい!(笑)