World End 02



 別に、それほどの意図があったわけではなかった。
 ただ葉の相手をしてばかりの兵部を振り返らせたかっただけだ。
 こっちを見て、どうしたのとその優しい声で名前を呼ばれたかっただけなのに。
 なのに、その腕をぎゅっと引っ張った拍子に兵部は身体のバランスを大きくずらして、そうして床に倒れ込んでしまった。
「いたた」
 トスンと尻餅をつくような形になった兵部が顔をしかめる。
「……あ、」
 はっとしたのはそれを見てからだ。
「きょーすけに何すんだよ、しろーのバカっ!」
「しろちゃん、どうしたの?」
「ご……ごめんなさい、」
 一緒に転んでしまった葉に睨まれ、傍で本を読んでいた紅葉には首を傾げられ、我に返った真木は慌てて兵部へと手を伸ばした。念動力で宙に浮いて真木に詰め寄る末っ子をよそに、兵部の手を掴んで引っ張り上げる。
「京介、ケガは……?」
「まさか」
 慌てて顔を見上げれば白い顔には心配したような色はない。いつもの優しい笑みを浮かべた口元にほっとしつつ、真木はもう一度ごめんなさい、と繰り返した。
 転ばせるなんて、そんなつもりではなかったのだ。
「いったいどうしたんだい、司郎」
 何か心配な事でもあったのかい?
「違う、ただ……」
 言葉にするぎりぎりで真木は口を噤んだ。
 五つ年下の末っ子をまとわりつかせて笑っている兵部に、自分のことも見て欲しくてちょっと強く手を引いてしまった、だなんて恥ずかしくて言えない。……それに。
 それに、兵部の身体は思っていたよりもずっと軽かったのだ。
 口ごもっていても、真木の表情から兵部は何となく察したらしい。と、くすりと笑みを零した兵部は肩にしがみついている葉を紅葉に預けると、今度は真木を真っ直ぐ向き合って見てくれた。
「ずいぶん力が強くなったんだね」
 それに、と兵部が小さく笑う。
「背もそろそろ追いつかれちゃうな」
 順調に兵部の肩あたりまできた頭をぽんと撫でてくれる手は一番最初の記憶のものよりずっと細い。
「あんなに痩せてて小さかったのに、子供が大きくなるのなんてあっという間だね」
 しみじみとした言葉に真木は目を瞬かせた。こういう時の彼は自分よりほんの少しだけ年上の外見よりもずっとずっと大人のように思えるからだ(70過ぎという数字自体は知っていても、真木にとっては数字が大きすぎてピンと来てないというのもあるかもしれない)。
「オレ、きょーすけよりぜったい大きくなるよ!」
 真木に対抗してか、紅葉の手を抜け出してふわふわと宙を飛んで兵部の首にかじりつくようにしがみついてきた葉が声を張り上げる。今のところはまだ手も足も標準よりずっと小さいくせに、兵部より頭一つ分は長身になる予定らしい。
「そしたらきょーすけのことたくさん助けてあげる」
「ありがと、葉」
「あたしもよ、京介」
「…気持ちはありがたいけど、さすがに女の子の君に抜かされたくはないなぁ」
 無邪気な幼児にやわらかい笑みを、末っ子に負けじと宣言した紅葉には苦笑いを返した兵部がふと少し寂しそうに瞳を巡らせる。
「……葉も紅葉も君も、今はこうやって甘えてくれてるけど、いつかもっと大きくなったら親離れしちゃうのかな」
「そんな事……っ」
 真木は少し口を尖らせた。
 そんな事を言う兵部は全然変わらない。
 銀色の髪も白い綺麗な貌も、切れ長の目の――闇を切り取ったかのように光のない真っ黒の瞳も、何も変わらない。
 出会ったあの時から欠片さえも変わらないのだ。
 対して、ちょうど今成長期に差し掛かっている真木は、栄養状態が悪くて骨が浮いていた以前が嘘のように背も伸びてきている。彼の言葉どおり、あと一年もすればきっと兵部の背丈を抜いてしまうだろう。
 それが嬉しくもあり、でも不安でもあった。
 早く、少しでも早く大きくなって兵部を支えたい。
 そう思うのと同じくらい、まだ子供でいたい。
 自分が大人になったら、兵部はもしかしたら自分の手を放してしまうかもしれない。もう一人で生きていけるだろう、と言われるかもしれない。
 兵部が自分たちを拾ったのが予定外の事だったと知っている。
 この何十年かを一人で生きていた兵部にとって、自分たち三人を初めとして次第に増えつつある子供たちは、本当は枷になってしまってるのではないだろうか。
 何か大きな――今の真木には想像もつかない何かと戦っている彼には、本当は子供たちなんて邪魔なだけだったら。
 あの時差し出してくれた白い手をずっと握っていたいけど、自分たちの存在が兵部の枷になっているのだとしたら、と思うと時に怖くなるのだ。
「大丈夫だよ、司郎」
 と、兵部が笑みを浮かべて真木の目を覗き込んできた。
「これでも結構欲張りだからね、君たちを手放したりしないよ」
 だって君たちは僕の家族だ。
「君は――君たちは、ここにいていいんだ」
 今までにも何度か与えられた言葉を再び口にする時、兵部はいつもゆっくりと発音する。
 まるでそれが世界で一番大事な言葉のように。
 だから真木はこの言葉が好きだった。
 存在を許される事――居場所を与えられるという事がどれほど嬉しいものか、真木は兵部から教えられた。
 それだけで兵部にもてる全てを――命だって差し出せる。そう思っているのに、なのに兵部はなぜかいつも付け加える。
「君が望む限り。……僕を信じていてくれる間は」
「そんなこと…っ」
 まるで、いつか三人が自分の元を去るかもしれないと思ってる――確信しているかのような言葉に真木は唇を震わせた。
「ねぇ君たちは、僕の手を離さないでいられるかい?」
「そんなの!」
 兵部の言葉に真木は大きく首を振った。
「離れたりなんかしないです、絶対に」
「そんなこと、絶対ないわ」
「しないもん!」
 世界でたった一人の大事な人を見上げて、三人で一生懸命に繰り返す。そうすれば兵部はにっこりと笑ってくれるのだ。
「……ありがとう司郎、紅葉、葉」
 でもその瞳は少し哀しそうに見える。
 兵部は知っているのだ。
 人間の心は変わるものだと知っているし、そう思っている。
 だから、真木たちの言葉を本当には信じてない。どこかでこっそり諦めている。いつか裏切られるのが怖いから。
 それは兵部が悪いのではなく、昔彼を裏切った人がいるからだ。
 きっと兵部にとっては大事な人だったのだろう。でも兵部を裏切って、その心に深い傷をつけた。
 もし、と真木は考える。
 もし時間が巻き戻るものなら、その瞬間に遡って自分がその人を殺してしまうのに。誰にも兵部にひとかけらの傷もつけさせたりなんかしない。
 ……でも、そんな事は出来ない。
 兵部が今あるのはその瞬間があったからで、その兵部に救われた自分たちもまた、その過去によって成り立っているからだ。
 時間は巻き戻せない。過去は直せない。
 だとしたら。
 真木はきゅっと口を引き結んだ。
 だとしたら、兵部に与えられるのは未来だけだ。
 どんなに自分の心を告げても兵部がそれを信じる事が出来ないのなら、実現して見せるしかない。
 だから、三人はずっと決めている。
 世界が終わるまで、絶対に兵部の傍にいる。
 その手を握って、心だって一瞬も離す事なく。
 出来ればその時にはもっと大きくなっていて、兵部を包んであげられるくらいになっていたい。
 そして、その瞬間を兵部と一緒に見ながら最後に言うのだ。
「ほらね、約束したじゃん」
「今までもこの先だって、あたしたちは」
「ずっとあなたと一緒ですよ」
 そう告げたら、兵部はどんな顔で笑ってくれるだろうか。
 きっと、その時こそ今までに見たことないような、心からの笑みを見せてくれるから。

 世界が終わるその時まで、絶対に離れない。
 それだけが、三人にとって一番大事な約束。




オチも何もないんですが、たまに書きたくなる幹部子供時代……!
すでにお判りでしょうが、幹部子供時代が大好きです。三人で兵部にまとわりついているところを想像するとめっちゃ萌えます。
厳密じゃないですが「ファーストコンタクト」の三人の感じで。
まだ子供なんだけどそろそろ兵部を無意識に意識しだしてる(なんだそれ)真木と、無邪気にくっついてる葉(天使のように可愛いの希望)、実は一番大人びてる紅葉(まだ我慢してひらひらフリルを着てる頃)でお願いします。