どん、と威勢良くそこに置かれた物体に一瞬しんとする。 「……なにこれ、人形?」 最初に反応したのは澪だ。好奇心が強い彼女は首を傾げながら、リビングのローテーブルの上に置かれた物体を見やった。 確かに人間に準じた形をしているが、それは人形と呼ぶにはかなり無理があった。なんせかけらも可愛らしくないのだ。大きさも成人男性くらいで、それを小脇に抱えて入ってきた真木がテーブルの真ん中に置いたところだ。 「CPRマネキンだ」 「しーぴーあーる?」 重々しく告げる真木に澪が頭の上に疑問符を幾つか並べた。 それを誰も咎めはしない。リビングにいる誰もがそんな単語の意味を判らなかったからだ。 大体にして、と葉はこっそり真木を睨んだ。 一昨日どうにか全員でパンドラ本部まで戻って、そこでようやく意識を取り戻した彼は、肩を落としてよろよろと入っていった自室から一回も出てこなかった。 年少組の子供の世話も放棄して(代役はコレミツになった)丸一日を部屋で過ごして、そうして完全復活したらしい。 昨夜、兵部が珍しくドア経由の正規ルートで真木の部屋に入っていくところ(部屋の主がドアを開けるまで扉を蹴り続けるという非常に近所迷惑な方法だったが)を見かけた若干名には何があったか、どうして真木が復活したか、おおよそ見当はついていたが、そこを突っ込むようなバカはいない。 代わりに紅葉が全員を代表して口を開いた。 「そもそも、CPRって何なの真木ちゃん?」 「CardioPulmonary Resuscitationで心肺蘇生法。……簡単に言えば人工呼吸と心臓マッサージの事で、これはその訓練のための人形だ」 よほど調べた後なのか、なにやら横文字を真木はさらさらと口にした。そして続ける。 「大事な仲間に何かあった時に、最低ラインの救命も出来ないようでは困るからな」 ぎろりと睨まれて葉は口を尖らせた。 ……その大事な時にすっからこんと意識を飛ばしていた人間に言われたくない。 と、言いたいところだが、あのギリギリの瞬間に咄嗟に能力を全部振り絞った紅葉と、その補佐として洞窟の入り口全部を炭素のシールドで覆って衝撃を受けとめ、周囲を心配してたせいで隙を突かれて昏倒した真木に、今の葉は何も言う事が出来ない。 「今から講習を始めるぞ、ここにいる全員覚えるように」 「……何でこう面倒な事ばっかり思いつくのかしらね」 まずはビデオ講習からだと、見ていたテレビを消された紅葉が溜息をつく。こちらは前向きでさっぱりした性格なので一昨日の経過を聞いて、ひとつ大きな溜息とともに葉の背中を思いっきりどついただけで終了としてくれた。その彼女からすれば真木のやり方は、実際には正しくても少々呆れてしまうものなのだろう。 「さぁ、全員よく見ておくように」 と真木がDVDの再生ボタンを押したその時。 「皆で何やってるのさ」 そこにやってきたのは兵部だった。 「少佐、」 いつもの黒い学ランに身を包んだ姿に真木が眉を吊り上げる。 「まだ本調子ではないでしょう、あなたはまだ寝ててください」 「やだ」 幹部の言葉に兵部は髪を揺らした。 「もう寝飽きたよ」 昨日の時点でもう元に戻ってたろ? 「それに、今僕が疲れてるとしたらそれは君のせ――」 「…わーっ!」 にこにこと上機嫌の顔で危険発言をしてくれる兵部に真木が咄嗟に炭素の手でその口を塞いで遮る。 「今少佐、何て言ったの?」 「……さぁ?ぜんぜん聞こえなかった」 澪とカガリがひそひそと首を傾げる。 まだ子供の彼らはともかく、咄嗟に葉がその能力で兵部の声の振動を相殺した意味を大人たちとカズラは知っている(助かった事にパティはいなかった)。 それに気づいた真木が慌てて兵部から炭素をどけ、バツの悪そうな顔で葉をちらりと見てくる。 別に、と葉はむっと口を尖らせながら目を逸らした。 真木を庇ったつもりなんかない。そういうのを知るのはチビたちにはまだ早いから、というだけだ。 そんな水面下での攻防をよそに兵部はあっけらかんと澪たちにおはようの挨拶をしている(今はもう正午に限りなく近いが)。 そしてテレビ画面に目を留めた。 「……なんか、つまんなさそうな番組だな」 教育番組のような(似たようなものだ)内容が始まっているテレビ画面を一瞥するなり、彼は画面を消してしまった。 「ところで起きたらおなかへっちゃった。ラーメン食べたいな」 「は……」 「ボス、俺いいとこ知ってる」 いきなりの兵部の言葉に真木がぽかんとするのをよそに、葉は手を挙げた。ひらひらと掌を振って兵部の視線を引っ張る。 「とんこつ醤油のすっげぇウマイとこ」 「煮玉子おいしい?」 「保障する」 こくこくと頷くと兵部がにっと笑った。 「じゃあそこに行こうか」 「わぁい!」 真木が仕切っているパンドラでは子供にはあまり外食の機会がない。しかも兵部と一緒だなんてそう滅多にない事だ。澪が顔を輝かせる隣でカズラとカガリが手をぱちんと打ち合わせる。 気が変わらない内に、とばかり澪がコレミツと一緒に瞬間移動し、笑いながら立ち上がった紅葉がカズラとカガリを連れて跳ぶ。 僕たちも行くかと残った葉を手招いた兵部が、渋い顔でDVDを片付けている真木へ視線を向ける。 「真木もおいで」 「俺もですか?」 「当たり前だろ、君がいないと困ってしまうよ」 だって、と兵部が続けた。 「君がパンドラの財布番だろ」 「……はい」 兵部に必要とされるという事にちょっとの期待が見事につぶれた顔に、葉はざまぁみろ、と内心で舌を出した。 兵部はみんなのものだ。独占しようなんてそうはいくか。 そんな思考を知る由もない兵部の言葉と同時に視界が変わる。 「お待たせ、じゃあ行こう」 場所はと聞かれて慌てて住所を思い出す。 「えーっと、横浜青葉区」 「OK」 ビルの上空で待っていた全員を引き連れての大掛かりな瞬間移動を繰り返す兵部にはもう一昨日の危うい面影はかけらもない。 「葉」 その事にほっとする葉に背後から声が掛けられた。 「なんだよ真木さん」 「……明日は絶対に講習をやるからな」 しつこく覚えている長男にへいへい、と肩を竦めた葉だった。 翌日、真木が人形をセッティングしようと布をめくると、虚ろな目をした人形の顔の輪郭にマジックペンで何やら髭のような線が書き込まれ、ご丁寧にも長い黒髪のカツラをつけられていた。 油性のそれは何度拭いてもまったく消えず、そのうち彼には『マギー』という愛称がつけられ。 ……そしてもちろん、誰もその人形で蘇生の練習をすることはなかった。
「パンドラリターンズ」の後の話として、自分的に補完を試みてみました。 葉x兵部のがシリアス風だったのでこっちはアホっぽく。ラーメンなのは、なんとなく私が食べたかったからだったり。 生真面目な真木ちゃんなので、自分でひとしきり落ち込んだらまたうざったい感じに復活するだろうと思ってみました。 アホっぽい話ですが、少しも笑ってもらえたら嬉しいなぁ。
……あ。 蛇足ですが、犯人の手掛かりは「H」です。