パンドラ的人心掌握術


「おなか減った!」
 と兵部が喚いたのはとある日の夜だ。
 リビングでの真ん中のソファで相も変わらずだらりと寝転がったまま、手だけを上げてひょいひょいと真木を手招く。
「真木、何か食べるものない?」
「食べるもの……ですか?」
 と、真木の復唱に首を傾げたのは紅葉だ。
「あれ、少佐はチルドレンと夕食してきたんじゃなかったの?」
「一応食べたけど、でもおなか減ったんだもん」
 と、ここで口を挟んだのはゲーム機から目を離していない葉だ。
「……ボケが始まってくると、ついさっき飯食ったのまで忘れるって言うからな……って、いたいいたいいたい!」
「だーれがボケたって?」
 相変わらずの騒々しいやり取りに真木は眉根を寄せた。
「だけど、こんな時間に更に食べると太るわよ」
 窘める紅葉の言葉には逆に学生服姿が胸を張る。
「僕のどこにそんな心配が必要なのさ?」
「……たまに少佐が憎い時あるわ」
 長身のスレンダーな体型ではあるが、それなりに注意を払っている紅葉からは呪詛のような低い呟きが聞こえたが、当然兵部に気にした様子はない。
「そんなわけで真木、何か食べる物くれよ」
「……では今から何か作りますからお待ち下さい」
 兵部はああ言うが、こんな時間に食べれば太るかどうかはともかく胃に負担がかかる。しかも兵部は見た目は十五歳だが実際の年齢ははるか上だ。どう考えてもあまりよくないように思える。
 今日一日、子供のお守りにもならないリムジンの運転手役をさせられた意趣返しも含めて、野菜スープでも作ってやろうと腰を上げたところで兵部がひらりと手を振った。待て、の合図だ。
「今日の残り物でいいよ、お前達何食べたの?」
「いやそれが……」
「俺達は、シチューだったよ」
 まさにそれを作り置きしていった真木が慌てて口を開いて、だが葉の返事の方が早かった。
「じゃあ僕もそれでいいよ」
「ですが、あちらでもシチューだったのでは?」
「何食べたかも忘れるようじゃやっぱ……いててて!」
「まぁ確かにシチューだったけど」
 葉の耳を念動力で引っ張りながら兵部がふと肩を竦める。
「……皆本っていうのはかなり器用なタイプらしいね、チルドレンにちゃんとした食事を摂らせていて、そこには感心するな」
「はぁ」
 それを言うなら自分だってそれなりにちゃんと栄養バランスを考えて食事を作っている。あっちはたった三人だがこっちはその十倍にものぼる人数分を用意して、今のところ誰にも大きな問題は出ていない。それに、たまにパンドラの食事の栄養バランスが崩れるのは、若干一名ほど我が侭な人物が色々注文をつけるからで、真木の意思ではない。
 もちろんそれは真木にとって当然の役割なのだから別に褒めてほしいわけではないが、でもあの運用主任だけを持ち上げて褒めるのはなんだか納得いかない。
「……でもなんか違うんだよな」
 そんな思考でなんとなくむすっとした顔になっている自覚がある中で呟いた兵部が小さく首を捻る。
「ああは言ったけど野菜もちゃんと入っててしっかりした味だったのに、でもどうにもピンとしなかったんだ」
 と、闇色の瞳が真木を見上げて。
「僕としてはお前の作ったシチューの方が好きだな」
「そ……うですか」
 結論を口ににこりと小さく笑みを向けられて、真木はどうにか表情を変えずに今度こそ立ち上がる事ができた。……少なくとも自分ではそう出来たつもりだ。
「ではすぐに用意してきますから」
 シチューの鍋を温めなおす合間にちょっとしたデザートも作れるだろうかと思い至ればその足取りは自然と軽くなっていて。
 自然緩みがちになる口元を懸命に引き結んで、ささやかな幸せと共に真木はキッチンへと急いだのだった。



 その後、真木が不在のリビングで。
「……ってなわけで、こういうのを飴と鞭って言うんだよ」
「いやそれもびみょーに違うと思うんだけどなぁ」
「あえて言うなら、豚もおだてりゃ木に登る、かしら?」
「それ、諺じゃないじゃん」
 などと、三人が会話していた事を彼は知らない。幸せな事に。



ようやく一万ヒット達成!でありがとうございます。
これもこんな地味なサイトを見に来てくれた皆様のおかげです。
でもお礼ページを作る構成じゃなかったので、結局はいつものSSとしてUPします……(がくり)。