再入荷なし

 


 なんでこんな事になってるんだろう、と皆本は自問した。

 目の前には兵部がいる。
 湯上り直後の身体の周囲を湯気がふわふわと漂って、それ以外に身にまとっているのはタオルではなくシャツ一枚だけだ。しかも、全体的に少し大きめで指先が覗くだけのそのシャツは本人のではなく、皆本のものだ。
 うっすらと目元を赤く染めた――もちろん、シャツの襟の隙間から見える首筋や胸元も薄赤い――兵部が上目遣いで兵部を見て、恥ずかしそうに微笑む。
 正直、ものすごくありえない光景だ。

 ……なんでこんな事になってるんだろう、と皆本は自問した。



 バスルームからものすごい音が響いたのはついさっきだった。
 洗面器か何かが引っくり返って転がる音のほかにドカとかゴツとかに近い音がしたのに気づいてすぐに何があったのかは判った。
「兵部、大丈夫か?」
「……石鹸踏んだ」
 慌ててドアをノックすれば、すぐに返事は戻った。いたた、と混じった呟きからするとどこかぶつけたらしいが、とりあえず大事ではないようだ。一応怪我はないかと訊けば大丈夫、と返事が戻った事に安心して、寝室を整えてから再びリビングに戻って、ちょっとそわそわしながらとりあえず上着を脱いでネクタイを外したところで、リビングのドアが開いたのだった。
「兵部?」
 バスルームから出てきたと思ったら、なぜか兵部はそんな格好で、湯上り直後で白い面差しの目元をうっすらとピンクに染めて、そして何を言うのかと思ったら。
「お願い…、優しくして?」
「え」
 思わず目を丸くしてしまったのは、それがまったく聞いたことのないような可愛らしく羞恥に震える声とそれに相応した表情だったからだ。
「……ひょう、…ぶ?」
 いったい何が起こったのか、これは天変地異の前触れなのかそれとも、兵部特有のいつものからかい――悪巧みだろうか。
 だが少し前から兵部とはこんな関係だが、最初から兵部は恥らったりなど欠片もしなかった(羞恥心とかでいっぱいで終始どぎまぎしていたのは自分の方だ)。羞恥どころか、いつも押し倒される勢いで兵部に上に乗られて、精気を吸い取られる、というのに近い感じの行為の事が多い。皆本が主導権を取れるなんて、おそらく何十年も先になると思って半ば諦めていた(それどころか、一生そんな日は来ないのかも知れない)。
 その兵部が、今日に限っていったい何を殊勝で可愛らしい台詞を言ってるのかと、わけが判らないから真意を知りたくてその顔をただ凝視してしまえば、ゆっくりと表情が曇った。
「……言い方、変だったかな」
 俯いてしまう少年の姿に皆本は反射的に腰を浮かしていた。
「そそそ、そうじゃない」
 今のタイミングでひょいと顔を上げて爆笑されるならいつもの兵部だ。充分にこっちが驚く顔は鑑賞できただろうし、嘘は得意でも飽きっぽいから、それほど長い時間を偽れる性格でもない。
 ここらへんで種明かしとばかりにニヤニヤと人の悪い笑みを口端に浮かべて、なんだよ皆本君期待しちゃったのかい?とか揶揄される、くらいの想像はつく。
 だがこの目の前にいる兵部は到底そんな性悪には見えなかった。
 皆本のシャツをまとっただけの身体を恥ずかしさに小さく震わせて、縋るように皆本を上目遣いで見て。
「じゃあ、抱いてくれるか?」
 どこか不安げに見上げてくる瞳に鼓動が跳ねる。
「兵部……」
 思わず抱きしめようと手を伸ばして、ギリギリで思いとどまる。もちろん兵部のお願いを叶えるのに異存はない。だがまだ風呂も入ってないし、ここは寝室ではなくてリビングだ。
「でも僕は風呂まだだし」
「そんなのどうでもいいから」
 皆本のシャツをきゅっと引っ張って揺れる瞳でじっと見上げてくる兵部は、いつもとは別の生き物のように見える。
 考えてみれば兵部の外見年齢は十五前後だ。老獪で気紛れで性悪な中身が滲み出ているから全体の雰囲気は到底そんな年齢には感じられないが、究極に性格悪い八十歳の部分を今はすっかり消し去っている今の彼は、いたいけで純情で恥ずかしがりやで可愛らしい顔立ちの十五歳の子供にしか見えない。
 いつもの兵部に惹かれているのとは別に、この少年にぐらりときてもしょうがないだろう。……と、皆本は自分に言い訳をした。
「お……お前が嫌じゃないなら、」
「イヤなはずない」
 ぷるぷると兵部が首を振る。そんな子供のような仕草に皆本の理性などあっという間に消滅する。
「だから……早く、」
「――兵部っ」
 誘うようにねだるように手を伸ばされたらもう我慢できない。
 両腕に抱き込むようにその身体を抱きしめて、そうしてソファの上に横たえる。体重を掛けないように注意しながら顔を寄せれば誘うように唇が薄く開く。
「皆も……」
 ――ゴツン。
 と、何か鈍い音が響いた。
 その音で気づく。皆本家のソファは決して大きくなく、サイドテーブルがソファと近接していたのだ。ゴツンという音はそこから聞こえた。正確には皆本が抱き込んだ兵部の頭部付近からだ。
 もしかしなくても、キスの勢いのせいでぶつけたのだろう。
 よほど痛かったのかぱったりと反応が止まってしまったことに渋々と口付けを解いた皆本は腕の中へと向き直った。
「大丈夫か、兵部?」
「……あれ?」
 と、兵部がぱちくりと目を瞬かせて、そして言うには。
「なんだよ皆本くん、君まだ風呂入ってないじゃないか」
「……え?」
 呆れたような声音で声高に言い募る兵部に皆本はぽかんとした。ついさっきまではそれでいいと言ってくれてたのに。
「さっきはこのままでもいいって」
「そんな事言うもんか」
 ぷいと兵部がそっぽを向く。その口ははっきりと尖っていて機嫌が急降下しているのを示している。
「今日外に結構出てただろ? 埃っぽいし汗臭いからやだ、それに、君んちの狭いソファの上なんてもっとやだ」
「……えー…っと、」
 ここら辺でようやくわかった。
 さっきバスルームで頭をぶつけたと言っていた兵部と、今ここでサイドテーブルの角に頭をぶつけた兵部は、身体は同じでも中身が違ったのだろう。
「さっさと汗流して来なよ、でもあんまりのんびりしてると帰っちゃうからね」
「……わ、判ったよ」
 いつもの調子で勝手なことを並べ始める兵部に、ほっとしたような、ちょっと残念なような、複雑な気持ちで皆本はバスルームに駆け込んだ。
 可愛くていたいけで素直な兵部、なんてものは結局、何かの間違いでしか拝めないのだと思い知りつつ、……諦め悪くもソープディッシュの上に鎮座していた石鹸をそっと洗い場の隅に置いてみたりしたのだった。


 ――その後、間違ったふりをしては時に兵部の頭に衝撃を与えてみたりしたが、なかなかあの時の人格には巡り会う事は出来ず、それどころか何の嫌がらせだと怒った兵部に壁に叩きつけられるに至って、皆本は幻の兵部との再会を諦めたのだった。


CODAさまの日記にきゃわいい兵部がいたのでちょっと勝手に書いてみたものです。
可愛らしい兵部もいいですよね!ごく稀にしか見られないところが(笑)。

七つ山さん、UP許可をありがとうございました!