Coffee Time




 ふと視線を上げると白い顔が見えた。
「……失礼だな、そんなに驚かなくたっていいじゃないか」
 思わず仰け反りすぎて椅子から落ちそうになった皆本の頭上から声がかけられる。
 あいにく眼鏡まで落ちかけたからその表情を正確に知ることは出来ないが、おそらくひどく無様な格好の皆本を見下ろしながら、目の端に笑みを乗せて、チェシャ猫みたいな顔でこっちを見下ろしているのだろう。
 皆本はどうにか体勢を整えながら眼鏡を鼻の上に押し戻した。
「な……なんで、お前がっ」
 慌てて周囲を見回す。ここは間違いなく自分の家のリビングだ。
 しかも、外壁と窓にはかなり強いESP対策がとられていて、葵の思念波の周波数以外での瞬間移動をブロックしているはずだ。
 だから、バベルと敵対している組織の首領が呑気にこのリビングの真ん中に立っているはずがないのだ。
 はずがないのだが、だが現実はと言えば、やはり目の前にいるのは兵部京介だった。……これが現実と思いたくはないが。
 いっそ夢だったら、と内心で思ったところでタイミングよく銀色の髪が小さく縦に揺れるのが見えた。
「うん、実は催眠能力を使ってる」
 とあっさり言われて皆本は目を丸くした。反射的に頭に片手を伸ばす。今度はいったい何をされたのか。
「な……、」
 こいつが帰ったら。
 と慌てて考える。
 急いで自分の脳波分析をしなくては。なにかまた妙な暗示を掛けられていたら、それがチルドレンに関してマイナスになる事だったら。
 だがそんな皆本の思考は兵部には筒抜けだったらしい。
「大丈夫だよ、チルドレンに害になるような事はしていないから」
 あっさり言われて、だがそれを鵜呑みに信じるほど馬鹿ではない。この子供――の形をした老人は、息をするように嘘をつくのだ。それが必要なら。
「だが、僕に催眠能力……って、」
「かけてたのはごく単純なものさ、」
 油断なく兵部を見やる皆本をよそに、兵部は優雅な仕草でソファに腰を下ろした。
「『僕の姿をベランダに見たら、君は僕を招き入れてくれる』」
 それだけ、と言いつつ彼は細い肩を竦める。
「これだけなら、そんなに害はないだろ?」
「でも」
 多少拍子抜けながらも、皆本は胡乱気な目で兵部を見やった。
 艶やかな銀色の髪に三方を縁取られた白い貌。大きな切れ上がった真っ黒の――闇色の瞳がじっとこっちを見つめていて、薄い唇は三日月のように薄く微笑んでいる。
 ……ちょっと色々あって、この少年の外見をした男と、他人には絶対に言えないような関係を持ってしまっている皆本としては、この貌をただ純粋に綺麗だと思って見惚れる事を許されない自分が悔しくもある。
 この人物は犯罪者でバベルの敵対勢力の首領で、小奇麗な見た目とは違って本当は八十年も生きていて、そしてなによりチルドレンを皆本から引き離そうとしている人物なのだ。油断をするわけにも感情に流されるわけにもいかない。
 そうやって自分に言い聞かせる皆本を横に、兵部は悠然とソファに深く背を預け、長い足を組みかえる。
 そして彼はニッと笑いつつイヤな指摘をしてくれた。
「皆本君、君は一つ忘れてるよ」
「なにをだ?」
「君は、僕の催眠能力が効きにくい体質なんだ」
「そういえば……」
 実際、完全に油断していた最初の一回を除けば、兵部の暗示は皆本には効きにくい。
「それに、僕であってもたった一瞬で本人の意図に大きく反した暗示を掛けるのは難しいんだ。……まぁ不可能ではないけどね」
「じゃあなんで」
 ならなぜ自分は無意識の内に兵部を招き入れるなんてしたのだろう。
「答は簡単さ」
 内心で考える皆本の思考を読んだように(実際に読んだのだろう)兵部は薄く笑って言葉を続けた。
「君にとってそんなにイヤじゃないから、だろ」
「な……」
 さらりと爆弾発言をしてくれて、改めて目の前に突きつけられた現実に赤くなっていいのか青くなっていいのか判らない皆本から兵部はおもむろに視線をキッチンへと流した。
「さて、折角来た客人にお茶くらい入れてくれてもいいんじゃないのかな?」
 しかも、君が自ら招き入れてくれたんだから。
「……わかった」
 少し考えて皆本は頷いた。
 兵部の言葉が真実でも嘘でも、どちらにしても皆本には超能力者である兵部を追い出す事は物理的に出来ないし、その気も今はない。会えて嬉しいなんて、そんな事を単純に思える間柄でもないけれど。
 だから兵部を追い出す代わりに。
「最高に美味いコーヒーを淹れてやるからそれまで帰るなよ!」
 皆本はそう言うなりキッチンへとダッシュしたのだった。


「……本当は、」
 と、ソファの上の兵部はその後姿を眺めながらこっそり呟いた。
「僕を見たら、君がしたいと望んでいる事をするって暗示だったのにな」
 兵部が窓から中を覗いた途端すっくと立ち上がって。
 ブラスターを持ち出す事さえ半ば覚悟していたのに。
 なのに皆本は窓を開けると嬉しそうに笑って、そうして兵部を抱きしめたのだ。
 皆本が我に返ったのは――兵部が暗示を切ったのはその後だ。
 だから気づいた時、すぐ目の前にいる兵部に驚いて、椅子から転げ落ちそうになったというわけだ。
「……どうせならベッドルームに連れてけよ、このオクテ」
 熱くなった頬を頬杖をついた拳で隠しつつ口を尖らせた兵部の呟きは、もちろん皆本に届く事はなかった。



Argentの那須さんの誕生日に送ったものです。無事に読んでいただけたみたいなので、ようやく正式UP……(笑)。
那須さん、誕生日おめでとうございます〜〜〜ってなわけで、約束は果たしたぞ!(笑)