kiss×kiss 01

 



 


 小さい頃は、よくキスをした。
 朝起きたら、食事の前に、彼が昨日よりも一つ多く何かを覚えたらその褒美として、何かに失敗したら宥める意味で、そうして夜、一緒のベッドで眠る時、小さな体が眠りに落ちる瞬間にも。
 キスは頬だったり額だったり瞼だったり、もちろん唇だったり。

 そんな習慣が途絶えたのはいつの頃だっただろう。
 いつの頃か、兵部が身を屈めると少年は逃げようとするか、身体を固くしてひたすら兵部が離れるのを待っているようになった。
 自分のキスを本当は嫌がっているのかと危惧した時もあった。
 子供のプライドを傷つけないようにと、接触精神感応能力(サイコメトリー)を故意に使う事はなかったけれど、それでも触れている部分から透視える感情に負の色はなかったから少し安心したりもした。
 本当はイヤではないくせに少年がひどく困ったような顔をするのが楽しくて、そういう時は特にたくさんキスをしたり、抱きしめたりした。からかうと真っ赤になって拗ねたりふてくされたり、泣きだしそうな顔でぎゅっと抱きついてきたり、子供の表情はくるくると変わって、それが全部自分によって起こるという事実が心地よくもあった。
 
 でも段々と保護する子供が増えて、兵部の時間は子供一人に与えてはいられなくなった。拾った中では一番の年長になっていた少年は率先して兵部の補佐を始め、次第に背も伸びてだんだん追いつき、それから追い越し始めた。
 そしていつの間にか、気づけばそんな接触はなくなっていた。

 最後に彼にキスをしたのはいつだっただろう。
 覚えていないほどずっと前の事だと気づいて、兵部は小さく眉を顰めた。




■ □ ■




「少佐、」
 掛けられた声に兵部は顔を上げた。声の方へ向けた先には長身の部下の姿があった。ダークスーツにネクタイまでを締めて、今時の男性としてもさすがに珍しいほどの長髪に、あごの周りを短く刈り込んだ髭が覆っている。
 色々な事情と思惑から直近の十年をバベル管轄の地下牢で監視される立場を選んで、つい最近そこから出てきた兵部にとって、その格好はまだ少し違和感を伴うものだ。
 十年前は、確かに背は既に兵部を追い越してはいたが、まだひょろっとした印象だったし、丸みを残した頬や目元にも幼さを残していたのに、いつの間にか兵部の背丈を追い越し、すっかり青年に変貌してしまっている。しかもあの髭のせいで、実際の年齢よりも数歳上に見える。……もしかしたら眉間にくっきり入った縦皺のせいもあるかもしれない。
 それを兵部は残念に思った。
 拾った頃はあんなに小さくて甘えっ子で可愛かったのに。
 今ではすっかり落ち着いた青年――葉あたりはおっさん呼ばわりをしている――になってしまった部下を見上げて、兵部は首を傾げて見せた。話を促す時の癖だ。
「何かあったのかい、真木」
「ちょっと気がかりな情報が」
 そんな兵部の思考など知る由もない真木が手にした書類を示す。数十枚はありそうな紙の束をちらりと見ただけで兵部は視線を部下に戻した。受け取る気がないと見てとった部下が小さく溜め息をつき、そうして書類を持った手を引っ込める。
「アーレ・ルギア解放戦線の残党が日本に来たとの情報です」
「……なにそれ」
 部下が口にした単語に心当たるものがなくて、兵部は首を捻った。どこかで聞いた記憶があるような気もするが、はっきりとした覚えがない。
 と、ひくりと部下の口元が引き攣った。
「先日、少佐が壊滅させた宗教テロ組織です」
「先日って?」
「……二か月前ですよ、ネオ・クリア爆弾を売った先です」
「ああ、あそこか」
 ようやく思い当たる節が出来て、兵部は愁眉を解いた。
 言われてみれば確かにそんな事もあった。自分の名誉のために念のため言っておくなら、別に記憶力が衰えてきているわけではない。そんな組織よりも女王(クイーン)によく似た少女の方の印象が強かったから、もう存在しない組織の名前など覚えていなかったのだ。
 対して部下の眉根はギュッと寄ったままだ。そんなに年中しかめ面をしていると眉間のしわが消えなくなるぜ、と言おうとして兵部は途中で止めた。多分もう手遅れだ。
「で、それがどうしたって?」
 その代わりに兵部はお茶、と呟いた。と、もう一度口元が引き攣って、だが青年はくるりと踵を返した。リビングを出ていく背中を見送りながらソファに横になる。クッションを抱え込んでだらだらしてると足音が戻ってきた。
「まだ話は終わってませんよ、寝ないでください」
「寝てないよ」
 どっちが年上だか判らない口調に兵部は口を尖らせた。
「どうぞ」
 差し出されたのは緑茶だ。兵部の好きな銘柄のを兵部の好きな淹れ方で、温度も完璧だ。……と、触れただけで判るのが接触精神感応能力者(サイコメトラー)の長点だ。ついでにこれを淹れた時の真木がどれほど深い溜め息をついていたかも判ってしまったが、兵部は見逃してやる事にした。いちいち怒っていたらキリがない。
「で?」
 リーダーとして、鷹揚な気持ちで兵部は部下に続きを促した。
「もう活動していない――活動出来ない組織の残党が来たという事は、少佐に復讐しようとしている可能性が高いという事です」
「僕に復讐?」
 お茶を啜りながらの兵部の視線に真木が重々しく頷く。
「カガリをはじめ、予知能力のある何人かに連中の潜伏場所を割り出すように指示は出しましたが、万が一の事もあります。しばらくは外出は控えてください」
「えー」
 部下の言葉に兵部は大きく顔を顰めた。
 十年も地下牢にいた兵部にとって外への制限をされるのはかなりイラつく事だ。例えその間だって催眠能力(ヒュプノ)を使って好き勝手に外出していただろうと突っ込まれたとしても、思ったままに動けない、という条件を提示されるのは兵部にとってはとにかくストレスなのだ。
「もし僕がターゲットだとしても、僕なら大丈夫だろ」
「そうとは限りません」
 だが長年付き合っている部下はこのくらいの事で前言撤回したりはしない。その代わりに少し話をずらして矛先を変えようとする知恵もいつの間にやら併せ持っていた。
「念のためコレミツにも護衛をつけました」
「ああそうだね」
 その言葉には兵部も素直に頷いた。
 その件にコレミツを連れて行ったのはどうにか覚えていたからだ。現地では子供の姿では信用されにくいだろうと催眠能力(ヒュプノ)で姿を変えていた兵部の顔が割れているというのなら、額にも大きな傷があり、顔の下半分に包帯を巻いた特徴的な大男は兵部以上に覚えられているだろう。しかもコレミツは精神感応力能力者(テレパス)だ。人並み以上の怪力はあるが、彼はあくまでも超感覚能力者であり、戦闘力としては念動力者(サイコキノ)などとは比べ物にならない。
「ですが奴らの標的は元凶であるあなたの可能性が高いと考えられます、ですから」
「……ちょっと待てよ」
 兵部はむっと口を尖らせた。
 元凶とは何だ元凶とは。
「言葉通りの意味ですが」
 この部下には精神感応能力(テレパシー)はないはずだが、音声にしなくても判ったらしい。澄ました顔で書類をまとめる横顔を兵部は睨んだ。
「……お前、最近生意気なこと言うね」
「生意気なのではなく、少佐にとって耳が痛い事でも必要があれば敢えて言うようにしているだけです」
 それを生意気と言うのだ。と兵部は思ったが、そこは黙っておいた。代わりにやや声のトーンを高くしてわざとらしく笑う。
「昔はすごく可愛かったのになぁ」
 昔は何でも兵部の言う事を信じて(だからからかうのがとても面白かった)、何でも兵部の言う事をおとなしく聞いたのに。
「もうあんな無知な子供ではありませんから」
 さらりと返す青年を兵部は不満そうな目で見やった。
 前は子供の頃を持ち出すといちいち赤くなって反論したのに、今ではそんな可愛らしささえもなくなって、これではただの背ばかりでかいオッサンだ。全然つまらない。
「それと子供たちの事ですが、」
 念のためしばらくの間本部から地方に移動させます、との言葉に兵部は少々改めて驚いてもう一度部下を見上げた。
「ずいぶん大事(おおごと)だな」
「元凶はあなたですよ」
「あっちだろ」
「いいえ、あなたです」
「……ああもう、ホントうるさいな」
 兵部が『パンドラ』を作って十年、彼はこの組織の一番古参であり、今は兵部の右腕と言っても過言でない位置にいる。その責任感もあってか、兵部に基本的には従いつつも時にちくりと言い返してくるのが玉に瑕だ。
 その幹部としての責任感の強い彼は未だに不服そうに古い事を蒸し返す。もう二ヶ月も前の事だと言うのに。
「大体にして、あなたが俺を連れていればこんな事にはさせなかったんです」
「仕方ないだろ、コレミツの方があそこらに詳しいんだから」
 いい加減しつこい。兵部はぷいっと顔を逸らすと再びソファに転がった。少し疲れが出てきたようだ。さりげなくクッションを抱え込んで身体に楽な体勢を取る。
「それにあれは、大体にして君があんまり、……」
 言い掛けて、兵部は途中で口を噤んだ。
 二ヶ月前のネオ・クリア爆弾の取引にコレミツを連れて行ったのは、彼が中近東の事情に詳しいからという理由もあったが、本当の一番の理由は、この部下の口煩さに閉口したから、というところだった。結果はと言えば、発声は出来ないものの思考送信能力はちゃんと保持しているコレミツのお説教を時と場合も関係なく食らう事になって(しゃべっている余裕がない状況でも思念波は送れる)、それはそれで大変だったわけだが。
「俺がどうかしましたか」
 だが、兵部が真木を連れていかなかった理由がばれてしまえば、今度は真木は絶対に傍を離れないだろう。
 それは困る。
 真木司郎という、パンドラのメンツとしては一番長い付き合いのこの青年を兵部は一番気に入っていたが、しかしとにかく心配症で口煩くて過保護で、少し離れたくなる事もあるわけで。
 そんなのがばれたら、真木はきっとずっと傍から離れないか、兵部に嫌われたと落ち込んで食事も取らずに死んでしまいそうだから、知られるわけにもいかない。
「……もういい」
 然るに兵部は話を切り上げる事とした。
「ちょっと疲れたんだ、寝るね」
「ここでですか?ご自分の部屋でゆっくりされてください」
「動くの面倒なんだもん」
 真っ当な提案をさっくり蹴って、クッションを抱えたまま寝心地の良い場所を探してソファの上で身動ぎした兵部は大事なものがないのに気づいた。
「真木、枕」
「……何を子供みたいなことを言ってるんですか」
 案の定、いかにもはた迷惑そうな声が戻る。が、兵部は引かずにひらひらと手を振って部下を再度招いた。
「枕がないと寝られないだろ」
「……わかりました」
 一つ深々と溜め息をついて、それから長身の青年が身を屈めてソファの端に腰を下ろす。兵部はもぞもぞと、芋虫のように身体を捩じらせてその膝に頭を乗せた。
「昔は僕がやってやっただろ」
「そんな事も、まぁありましたが……」
「だから、借りを返せよ」
「……ああもう、好きにしてください」
 あなたはいつもそうなんだから、と苦りきった声音と顔だが、触れた部分から感じるのは半分以上が照れだ。昔の事を持ち出すと彼は少々ムキになる傾向があるが、その主成分が照れ隠しだと知っているから、兵部としては突っつくのが楽しくて仕方ないし、こうやって甘えて甘えやかされるのは心地よい。
 ……それに。
 と、こっそり思う。
 一人の部屋にいるより、誰かがいる空間の方が落ち着くのだ。ここなら嫌な夢を見ても誰かが起してくれる。それがこの部下なら一番安心していられる。
「少し寝る、お休み」
「はい」
 部下の膝を枕に兵部は目を閉じた。
 少しして肩までそっと毛布が掛けられ、髪を指で梳かれる感覚に、微かに寄っていた愁眉が自然に解けていくのを感じる。
 これなら、少しは夢を見ないで眠れそうだった。


■ □ ■


 アーレ・ルギアの残党が東京までやって来ている、と部下から改めて言われたのはそれから数日後だった。
 リビングにはまだ小さな子もいたから気を使ったらしく、リビングを出たところで声を掛けられ、兵部はとりあえず部下ごと自室へ瞬間移動(テレポート)した。
 部下をソファの上へ、自分は床に下り立つと上着を脱ぐ。上着を椅子の背に放って一人掛けのソファに腰を下ろして横を見ると、ソファの上にうつ伏せに落下した部下がようやくその背中に山積みになったクッションを全部どかしたところだ。
「…なんでいちいちこういう事をするんですか!」
「面白いから」
 クッションをあるべき場所に戻しながら怒りの形相で兵部を見下ろす部下に兵部はちょっと考えて答えた。こう言ったらきっともっと眉を吊り上げて怒るだろう。それをからかって遊ぶのはちょっとした余興になると、そう思ったのに。
「…………まぁいいです」
 だが部下は苦虫を噛み潰したような顔をしただけでいつものようにお説教をしてこない。見た目はともかく、実際には自分よりずっとずっと年下の子供にぎゃいぎゃい言われるのは煩くて遠慮したいものではあるが、何も言われないのもそれはそれでつまらなくて、兵部は口を尖らせた。
 だが真木はそんな兵部の表情に気を使う気はないらしい。
「アーレ・ルギアの残党が東京入りしましたので、ご報告を」
 真面目な話になった事に、仕方なく乗ってやる。
「よく判ったな」
「助かった事にあの手の風貌の人間はここでは目立ちますから」
 カガリたちの予知データとアンダーグラウンドの情報を元に割り出したのだと言う。
「案の定、こちらの動向を探っているようです」
「ふーん」
 人数は六人前後だとか、内一人はエスパーだとか続く。うるさく言うだけあって、情報収集は完璧らしい。
「奴らがうろついている間は、何があるか判らないのでしばらくは本部から出ないでください」
「えー」
 兵部は片眉を引き上げて部下を見返す。その反応を予想していたらしい真木は敢えて視線をずらし気味に、ですので、と続ける。
「この件は俺と紅葉で片付けますから、とにかく本部から出ないで下さい、よろしいですね?」
「出るな出るなって、いったいどのくらい掛かるんだよ」
 しつこく繰り返されて兵部は辟易して天井を見上げた。
 この部下とは一番長い付き合いなのだし、自分が行動を束縛されるのを最も嫌うのだといい加減覚えてもいい頃なのに。それどころか、『するな』と言われると途端にそれをしたくなる性格だと判っているはずなのに。兵部は自分の天邪鬼具合には正直自信があるのだ(誰も褒めないだろうけれど)。
「少佐の考えてる事は判ってます」
 と、真木の言葉に兵部はこっそりと舌打ちした。一番長くを付き合っているだけあってこっちの思考を的確に読んでいるらしい。
「束縛されるのが気にいらないのは判りますが、しかし奴らは無差別テロを行うような連中です。……少佐はともかく、他にも被害が出ないとは限りません」
「……じゃあ僕は君たちがあいつらを政府に捕まえさせるまで、おとなしく隠れてろって言うのかい?」
 口が尖る。
「安全策をとりたいだけです」
「逆に、僕に任せてくれればすぐに終わらせられるぜ?」
「それでは意味がないでしょう」
 にやりと露悪的に笑って自分を示すも呆れたような声音が返るだけだ。……まぁ確かに真木にとってはそうかもしれない。不本意な指示に不満を隠さない兵部に、その代わり、と彼は宥めるような口調で見返す。
「三日で終わらせますから」
「三日?」
「ネオ・クリアを持っていた事でアーレ・ルギアは国際手配を受けています。上手くこちらの政府に情報を流して一網打尽で捕まえさせるのが一番良いかと」
「ずいぶん手ぬるいな」
 部下が選んだのは確かに本人の言う通り、かなり無難な選択肢だ。わざわざこんな東の島国まで復讐のためにやってきた連中にはそれなりのもてなしをした方が喜ぶと思うのに。
「できれば事を大きくしたくありません」
「なんでさ」
 兵部は口を尖らせた。
「パンドラに歯向かったらどうなるか、教えてやればいいのに」
 連中から隠れておとなしくして、その上政府サイドに捕まえてもらうなんて、まるで普通の組織みたいだ。パンドラらしくない。
「そんなわけにもいきませんよ」
 だが好戦的な兵部に対して、真木はあくまでも無難路線を主張する。しかもそれがまるで子供に言い聞かせるような口振りで、どっちが年上だか判らなくなってくる。
「なんでさ」
「元はこっちの一方的な契約解除が原因ですよ、お忘れですか」
「……だってあれは」
 嫌なところを突っ込まれて兵部は口を尖らせた。
 正確には、ネオ・クリア爆弾を渡すまでがアーレ・ルギアとの契約だった。だからそういう意味では爆弾を渡した後の事は契約外ではある。それに、兵部とコレミツが彼らの爆弾テロに遭遇してしまったのが直接の原因だ(女王(クイーン)によく似た少女に出会った部分はコレミツに口止めしてある)。
「元はと言えば、あっちが無差別テロなんかやったから」
「ええ、もちろんそれは聞いています」
「下手したら僕もコレミツも、その爆発に巻き込まれていたかもしれないんだぜ?」
 そんな連中を助けるのかい?
「……それとこれとは、話が別です」
「だけど」
「これはこれ以上他のテロリストの恨みを買わないためです!」
 言葉とともに机をどんと叩かれて兵部は目を丸くした。兵部を怒ると言っても苦言を呈する、程度の真木にしては珍しい。
「真木……?」
 にわかに激昂した真木は次の瞬間はっとした顔をした。
「……すみません、」
 気まずそうにぼそりと一言吐いて一度口を閉じ、それから気を取り直したように顔を上げる。
「最悪の場合は、俺が全部片付けますから」
「それって、」
 どういう意味かと問い掛けて、途中でやめた。
 『片付ける』の意味が判らないほどボケてはいないつもりだ。
 パンドラにいる大部分の超能力者の例に漏れず、普通人に対してあまりいい感情を持っていないとは言え、常はあまり事を荒立てたがらない真木の口からそんな言葉が出てくるとなると、どうも相手はただの下っ端テロリストではないのかもしれない。
「少佐、それでよろしいですね」
 言葉を重ねる真木はどうにかして兵部の言質を取りたいらしい。そんなものに意味がないのは真木も判っているのだろうが、それでも少しは縛りになると思ってのことだろう。
 でも、と兵部は内心で呟く。
 そんな大人しくウンと言うとでも?答えは否だ。
「……まぁ僕の気が向けば、ね」
 なので返答はこんな感じになる。と、その片眉が吊り上がった。
「またあなたはそんな」
 ひくりと部下の口元が捻じれるのを兵部は楽しく見やった。
 以前のように素直に笑いかけてこなくなって、常に眉間に皺を刻んだしかめ系無表情面のこの子供の表情の変化を楽しもうと思ったらこうやって混ぜっ返すくらいでしか見られない。
 昔はあんなに可愛かったのに(確かに、紅葉や葉みたいな顔立ちの可愛らしさとはちょっと違うが)、大きくなった今、なぜいつもそんな仏頂面をしているのか不思議なくらいだ。
 そんな兵部の感慨を知らない真木は更に眉間にしわを刻んで兵部を見下ろしてくる。
「どうしてあなたはそういつもいつも」
「ああもう、ホントうるさいなー」
 どっちが年上だか判らないようなエラそうな視線に大きく顔を逸らして大きく呟く。もちろんわざと聞こえるように、だ。
「……少佐、いい加減に」
「じゃあさ、」
 と、兵部はいい事を考えついた。きらりと目を輝かせて部下を見上げる。嫌な予感でもしたのか、真木が半歩を下がりかけるのへにっこりと笑みを浮かべて兵部は口を開いた。
「お前がキスしてくれたら、おとなしくしてる」
「……は?」
 間髪を入れず素っ頓狂な声が戻った。
「な……何をおっしゃってるんですか、俺は男ですよ」
「いいじゃん、昔はよくキスしたじゃん」
 思った通り、ぎょっとした顔と少し声を上擦らせる反応に兵部は笑いを堪えきれない。
 ちょっと目を離した隙にこんなにでかい図体になって、最近はエラそうに自分にお説教なんかまでして、でもちょっと前までは兵部からお休みのキスをもらわないと頑としてベッドに入らない子だったくせに。
 ちょっと前まではどれほど兵部に夢中な子供だったか、それを思い出させてやる。
 そんな決心で兵部は言葉を紡いだ。
「あの頃は可愛かったよなぁ、どこに行くのにも僕の後をついてきてさ、寝るのだってずっと一緒だったじゃん」
「そ……んなのは、葉が来るまでの事でしょうっ」
「なぁに言ってんのさ、葉が来た後も一緒に僕と寝てただろ、」
 真っ赤になった真木が気色ばんで言い返してくるのを軽くいなして兵部はくすりと思い出し笑いをこぼした。
 あの頃、子供たちは兵部の取り合いをしてケンカまでして、仲裁に入った兵部に文字通りしがみついて離れない葉とふてくされる真木に挟まれて寝るのが兵部の常だった(たまにはケンカの罰としてそれぞれ一人で寝させたこともあるが)。
「お前、ガキの頃は結構やきもち焼きだったもんな」
 思い出したら今度は自然に笑みが浮かんだ。
 幹部となった三人は今は全員兵部を身長で追い抜かしておとなびて、首領とその部下という形になってしまったけれど、昔は本当に、まるで兄弟のように仲良かったのだ。
「あれは……」
「あれは?」
「あれは、……まだ何も判らない子供だったからです」
「へぇ」
 耳まで真っ赤にした真木の困りきった顔が楽しくて、兵部は片眉を上げてニヤニヤと笑いながら問う。
「じゃあ今はもう子供じゃないわけ?」
「……もう俺は大人ですよ」
 少なくとも世間一般では、とすぐに続いたのは兵部の言い返しを察しての事だろう。
「それに、……昔と今とは違います、から」
「どこがさ」
 もごもごと口の中で呟くような声に、兵部は目の前の長身を見上げて肩を聳やかせた。
 確かに少しばかり身体は大きくなって、精神的に成長もしているのかもしれないが、こっちはもう八十年も生きているのだ。歳の差は絶対に埋まらない。
 なのに兵部の前でさえもいっぱしの大人ぶって振舞うから面白くないのだ。前みたいに自分にだけは甘えてればいいのに。
「まぁいいや」
 そう言う代わりに兵部は予定の言葉を続けた。これを切り出すための前振りだ。
「僕に君の指示に従ってほしかったら、代価をよこせよ」
「代価……って……」
「代価が『キス』だよ」
 にっこりと笑って頷く。
「お前がキスしてくれたら、三日間おとなしくしてるよ」
 何がそんなに驚く事なのか、ぽかんと大きく口を開けて、間の抜けた顔をしている真木の顔を見上げて兵部は少し満足した。
 彼が目指しているらしい『大人の男』とはかけ離れた顔だ。
「どうしたのさ」
「……しょ、少佐……その、それはちょっと……」
 しどろもどろの返事にニッと笑みを深める。
「じゃあ好き勝手に遊んでていい?」
「そ、それは困ります」
「じゃあ今、君が何をすべきか判ると思うけど?」
「…………、」
 真木が反撃の言葉を見つけられずぐっと詰まる。
 そこを見計らって兵部は目で微笑った。
「……おいで、真木」
 手招きにふらりと影が動いた。
 まるで操られているかのようにぎくしゃくとした動きで真木が正面に来るのを兵部は悠然と待った。もちろん催眠能力(ヒュプノ)など使っていない。兵部の言う事は、最終的にはちゃんと聞くのが真木だからだ。
 じっと見つめられて兵部は満足げに目を細めた。
 別に本当にキスが欲しいわけではない。正直言えば真木を困らせてやりたい、くらいの気持ちだ。
 それだけの気持ちだったが、真木にとっては違ったらしい。
「しょぅ、さ……」
 どこか苦しげに顔を歪めた真木が絞り出すような声で兵部を呼ぶ。そんな顔をするほど嫌なのかと思うとさすがに少々の罪悪感を感じないわけでもないが、言い出した事を撤回するのも癪だ。
 なんだか妙に思いつめた風の真木の顔が近づいてくる。
 ――と、そこで急に電子音が鳴った。
 今時逆に珍しい、ピピピという何の捻りもないそれが真木の携帯の着信音である事をパンドラのメンバーなら誰でも知っている。
 その音に、真木が弾かれたように身体を仰け反らせて兵部から距離を取って胸ポケットの上に手を当てる。
「……す、すす、すみません、電話が」
「出れば?」
 顎をしゃくって促せばどこかほっとした表情の真木がポケットから携帯を取り出し、数言を話したかと思うと通話口を手で押さえ、勝手に一礼してそのまま部屋から出て行ってしまった。
「………………なんだよあいつ」
 結局、部屋に一人残された兵部は口を尖らせた。
 出れば、と言ったのは電話に、であって、部屋から出ていいと言ったわけじゃない。
 だってまだキスをもらってないのだ。
 なのに、まるで電話がきたのをこれ幸いと、逃げるように出て行ってしまうなんて。
 少し前までは、バベルの特別地下牢に戻る時間になる度に、行かないでと言いたげな目でじっと兵部を見つめて、そうしてぎゅっと掴んだままの上着の裾をなかなか離してくれなかったのに。
「……これが親離れってやつ、なのかなぁ」
 呟いて、兵部は少し寂しく思った。


■ □ ■


 つまり、あの時に兵部は真木と約束したわけだ。
 と、兵部は眼下を見下ろしながら思考を巡らせた。
 あれから二日を兵部は自室で過ごした。ちょうど身体の調子もよくなかったのもあって、久しぶりにゆっくり眠ったし、読みたかった本の何冊かに目を通す事が出来た。
 だが真木の方はと言えば、一向に約束の履行にやって来ない。
 それどころか終始自室に篭っているようで、食事の時にちらりと見かけるくらいだ。しかも、その時も書類を横に置いて目を通しながらだし、しょっちゅうメールチェックをしていて、見るからに忙しそうだ。
 いつもは年少の子供の世話も彼の仕事なのに、ここ数日はそんな余裕はないようで、もっぱらコレミツと紅葉がちびどもの世話に勤しんでいる。
 それほど忙しいのだから、兵部とほとんど目も合わさない事とかあれ以来まともに話していない事とかにも、本当なら兵部は理解を示さなければならない。これでも彼は組織の幹部なのだから。
 そうは思っても、面白くない気分になるのは抑えられない。
 ……だって、約束したのに。
 確か、真木が自分にキスをしたら、その時は動かずにじっとしててやる、というのが約束の内容だった。
 という事はつまり、と兵部は秋の風に髪を揺らしながら考える。
 その真木が結局はキスしないで逃げていったのだから、自分は真木との約束を守る必要がない。
 それどころか、逆に、ここでおとなしくなんかしたら、真木に都合のよい解釈をされる事になってしまう。
 この兵部京介が、子供の指示などにおとなしく従うような人間と思われてたまるか。
「それに」
 と、兵部は呟いた。
「自分の蒔いた種くらいは自分で刈り取れるさ」
 見下ろす街並は角度を深くしたオレンジ色の太陽に照らされて光と影のコントラストがいつもより深い。
「今まではずっと一人でそうやってきたんだから」
 自分に言い聞かせるようにして、兵部はビルの屋上からひらりと身を躍らせた。

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