密会
(お題:爪を噛む)



「……あ、いえ、無事着いたならいいんです、薫のやつ、旅行をとても楽しみにしていたのでたっぷり遊んであげてください」
 何度か頭を下げながらの会話を切り上げ、受話器を下ろす。日本人の特性のこの動作には、背後の気配から笑いは返らなかったが、その代わり不満そうな溜め息が大きく吐かれた。
「チルドレンなら僕の部下たちがちゃんと護衛してるし、彼らによれば、もうとっくにそれぞれの家に着いてるよ」
「護衛……って、君の部下が?」
「うん、僕の」
 こっくりと頷いたのはさっきからソファの上に座っている一人の少年だ。黒い学生服を一部の隙もなくかっちりと着込んで、ソファの上で悠然と脚を組んでいる。
 一見は十五歳程度の、ひどく整った顔立ちをした彼の正体を知らしめるのは日本人らしくない銀色の髪でも子供には到底できないような皮肉気な表情でもなく、その眼だ。
 色々を見過ぎて濁ってしまったようにも、逆にあまりにも強く硬いために何にも穢れていないようにも見える闇色の石を嵌め込んだ両眼が、彼が見た目通りのただ綺麗な姿形をした少年ではない事を知らしめている。
 兵部京介。エスパーの解放のためなら反社会的行動を躊躇わない組織のリーダーで、かつて何人もの人間を殺している殺人犯で、そして現在はバベルの特別監獄から脱走した逃亡犯でもある。
 その彼は、だが今は皆本のリビングのソファの上で片方の爪先をぶらぶらさせて口を尖らせている。
「それに、もし彼女たちが急に戻ってきそうな時は、ちゃんと僕に連絡が入る事になっているから、大丈夫だって」
「え」
 付け加えられた言葉に眼鏡の奥の目を見開く。
「お前、まさか自分の部下を」
「僕の部下がどうしたって?」
「……いや、いい」
 組織の長たるものが敵勢力の一人と会うために部下を酷使するのはあまり褒められた事ではないような気がする。
「大丈夫だよ、パンドラはバベルみたいな味気ない組織じゃない」
 離れているから思考を読まれたわけではないだろうが、皆本の表情で判ったらしく、兵部はにっこりと笑って続けた。
「僕の子供たちはみんな僕を大事に思ってくれてるから、僕のお願いはちゃんと聞いてくれるんだ」
「お願い……って、」
 その言葉につい渋い顔になる。どうにも嫌な予感がするからだ。
「じゃあもしかしてお前の部下たちは、お前がここにいるって知ってるのか?」
「知ってるよ、当たり前だろ」
「…………」
 当然、と言いたげな表情で見返されて皆本は頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。
 自分の組織の長が敵対勢力と目している組織の、その中でも一番の癌、というべき存在(と、彼らは思っているだろう)である自分と逢うのを知っているのなら、夜の時間を使って二人で何をしているかも知っているのだろうか。
 多分彼らにとっては唯一無二に敬愛している対象が、ただの普通人の、しかも男と寝ているなんて、彼らはそれをどう思ってるのだろうか。
 ……考えまい、と皆本は頭を一つ振って思考を消した。
 兵部の部下の心情を思いやってる余裕はない。
「と、とにかく電話をしてしまうから」
 慌ててもう一度電話に向かい直すと不満げな声が上がった。
「……ねぇ皆本、まさか君は、せっかく僕が来てるってのに、三人の保護者によろしくって電話を掛け続けるつもりなのかい?」
 だがここは譲れない部分だ。少なくとも皆本にとっては。
「僕が預かっている大事な子供たちがちゃんと家に着いたかどうかを僕が直接確認するのは僕の義務だ」
「……相変わらず石頭だな」
「何とでも言え」
 きっぱりと言い切った後、少し迷ってから付け加える。
「だからもう少し待っててくれ、頼むから」
 チルドレンが三人ともいない事はそう滅多にある事ではない。特に薫の家は家人両方が多忙な芸能人で、なかなか薫の相手をしていられないのが現状だ。
 こうやって子供たちが三人とも完全にいない夜というのは珍しく、そしてこういう時しか兵部は訪れない。
 だから、せっかく来たのにずっと放置されてる兵部が文句を言うのもわからないわけじゃない。だが、やはり確認は大事だ。彼ら三人は桐壺で言うところの『国の宝』だし、そうでなくても皆本にとっては大事な家族のようなものだからだ。
 それに、特に薫の動向については皆本は注意を払う必要がある。時に彼女の家族は彼女よりも仕事を優先させてしまい、そういう時薫はしょんぼりと肩を落として帰ってくるからだ。
 実際、今回だって薫の予定はぎりぎりまではっきりしなかったのだ。本当は姉と温泉旅行に行くはずが、急に新しい仕事が入ったのだとかで、グラビアアイドルからの脱却を目指す彼女はその仕事を蹴る事が出来なかった。仕方ないから宿のキャンセルをしようとしていた矢先にもう一本の電話が入った。それは薫の母親からだった。劇場設備に電気系統の異常が見つかったとかで舞台稽古が数日間の中止になったのだそうで、それで急遽構成メンツが変わっての温泉旅行に行けるようになったというところなのだ。
「……あれ?」
 と、そこで皆本はとある事に思い当った。受話器を一度置いて振り返る。
「電気設備の異常って」
「僕は知らないよ」
「嘘だ」
「嘘だったらどうなのさ」
 細い肩を聳やかせて挑発的に見返す白い面差しに皆本は一度口を閉じた。
 言いたい事は色々ある。そんなつまらない事で舞台の設備を壊したら周囲に迷惑がかかるんだぞとか、完全に個人的な事情じゃないかとか、稽古自体が中止にならなかったらどうする気だったのだとか。
 ……だが結局口に死したのは。
「薫を旅行に行かせてくれて、ありがとう」
 真面目に言えば、フンと鼻が鳴らされる。
「君にわざわざ礼を言われるようなことじゃない、女王を悲しませたくないのは僕も同じだからな」
 それに。
「……電気設備は、本当はもう前からおかしかったんだ。今日異常がはっきりしてなかったら、本番中にケーブルが切れて本当にシャンデリアが落ちるところだったぜ」
 口を尖らせて、少しふてた顔の兵部がぼそぼそと付け加える。
「だとしたら猶の事、感謝する」
 と、ぷいっと兵部がそっぽを向いてしまった。
「兵部……」
「……早く電話しちゃえよ、女帝なら父親は今日も会議で遅くなるけど、母親は彼女のためにケーキを買って待ってるって、葉が言ってる」
「ああ、そうする」
 少し遠い目をしてこめかみを押さえた後(おそらく精神感応能力を使ったのだろう)、少し妥協を見せてくれた兵部の言葉に、皆本はあわてて受話器を取り上げた。

■ □ ■

 結局、電話を完全に終わらせられたのは十分以上経ってからだ。
 紫穂の家は兵部の言った通りで、早く電話を切れたが、京都への電話が思ったより長引いたからだ。電話に出たのが葵の弟で、長く受話器を放置された揚句(おそらく故意だ)、すでに酔いが回ってテンションの上がっていた葵の父親のくどい話を何度も聞かなければならなかったからだ。
 話半分のところでほぼ無理矢理電話を切り上げられたのは、正直言えば背後の殺意にも似た怒りの波動が大きくなっているのが普通人の皆本にさえも如実に判ったからだ。
 葵の護衛のために京都まで行っている(おそらく瞬間移動能力者なのだろう)という彼の部下に兵部がいつ妙な命令を出すとも限らない。それにこっちの電話線を切られても困る。
「待たせて悪かったよ兵部」
「……待ちくたびれた」
 そうしてようやくリビングのソファに向き直れば、言葉通りの態度で、兵部はソファの上に小さな子供のように身体を丸め、膝を抱えて座りながらそっぽを向いていた。その横顔は苛々とした表情を隠しもしていない。
「仕方ないだろ、せっかくお前が来てくれているからこそ、ちゃんとやる事を終わらせて、その上でお前に集中したいんだ」
 大事な子供を預かっている立場として彼らの親に連絡と挨拶をするのは当然だと思うし、それをおろそかにする事は自分の主義に反するから絶対に出来ない。たとえ傍にこの上もなく自分の意識を引き付ける存在がいたとしても、だ。
 だが皆本の説明にも兵部の態度は変わらない。
「集中って何に?セックスに?」
「……そうじゃなくて」
 つっけんどん、かつ直截な言い方にぐっと詰まりつつ皆本はめげずに手を伸ばした。
「明日の朝まで時間はあるんだ、もっとゆっくり話とかしよう」
「僕と君とで?」
 完全にご機嫌斜めになっている兵部はふんと鼻で嗤う。
「僕らの未来の展望はかなり異なるし、主義主張も違う」
 冷たい声がとげとげしく続く。
「僕らの共通点って言ったら、君と僕とでセックスすると結構気持ちいいって、そのくらいの認識じゃないか」
「他にも共通点はあるさ」
 突き放すような物言いにめげず、皆本は距離を測って兵部の傍らに腰を下ろした。兵部に逃げられるほどは近すぎず、他人行儀だと怒らせない程度に遠すぎず。鈍感と言われる事の多い皆本であってもそのくらいの見極めはさすがに出来るようになったのだ。
「頼むから、少し話そうって」
「何をいったい話そうってのさ」
 ちらりと視線が流される。少し妥協してくれている(兵部にしてはかなり最大限の譲歩だろう)と判ってほっとする。
「些細な事でもいいじゃないか、たとえば」
「たとえば……?」
「この手」
 皆本はひょいと兵部の膝の上の手を取った。その指先を自分の指でなぞる。案の定だ。
「爪がギザギザになってる。また噛んでたんだろ」
「……君が電話している間、僕はずっと暇じゃないか」
「せっかくきれいな形の指をしているのに」
 じっと見つめて、皆本は眉を顰めた。
 手に取った兵部の指は白くてほっそりとしていて、未発達な少年の容貌と相俟って、非力な部類のものに見える。
 だが、と意識の奥で警鐘が鳴る。
 この白くてきれいな手は、実際には血で汚れている。ペンとか箸とか、必要な最低限のものしか持った事のないようなほっそりした手と指で、だが彼は今までに何人もの人を殺しているのだ。
 ……考えない、と皆本は自分に言い聞かせるように繰り返す。
 この部屋の中でだけはそんな事は考えない。そう決めたはずだ。
「皆本」
 ふと兵部に静かに名前を呼ばれて、我に返る。
 と、手の中の指は一瞬でかき消え、慌てて声の方を見れば宙に身を浮かせた兵部が小さく笑って皆本を見下ろしていた。その眼にはどこか諦めたような色がある。
「難しい事は考えなくていいよ、……しよう」
「兵部……」
「身体の関係、でいいじゃないか」
 その白く細い手が伸ばされ、皆本の首裏に回された。そのまま頭を柔らかく抱き込まれて、耳元に甘く囁かれる。
「僕たち、とても都合がいい事にすごく身体の相性はいいみたいだしさ」
 すごく、という部分を強く発音する兵部の言葉に皆本は頬が熱くなるのを感じた。
 実際、最初の行為の時からお互いに今まで味わった事のないくらいの快感を感じてしまったのだ。どんなに見た目は綺麗な顔立ちをしているとはいえ、同性、しかも実年齢は八十歳を相手に、同性を抱く経験なんて初めてだったのに。
 何から何まで初めての体験に戸惑ってうまく動けない皆本をよそに、ひどく手慣れた風だった兵部でさえ途中からは皆本のぎこちない動きにもひたすら感じきって、堪えきれない嗚咽を零し、背筋を震わせ、唇から洩れるのは甘ったるい嬌声ばかりだった。
 しかも最後は感極まったように皆本にしがみついて何度も皆本の名前を呼んで、そうして意識を飛ばしてしまって。
 その時の甘い声を思い出すだけで心臓が鼓動を速めてしまう。
「だから、もう何も考えなくていいよ」
 それが判ったのか、兵部が目だけで笑った。いつもの皮肉っぽいそれではなく、ひどく透明な笑顔にどきりとする。
「抱いて、皆本」
 だがすぐにその笑みは消えた。たぶん無意識に浮かべたそれをいつもの表情で塗り替えて、甘ったるく媚びて囁く兵部に皆本は首を振った。
「その前に、この爪を何とかしないと」
「そんなのどうでもいいじゃないか」
「だめだ」
 早くしよう、と情欲を滲ませて少し低めた声が囁いてくるのを、どうにか堪えて皆本は一度立ち上がった。
「そうじゃないと僕が困るんだ」
「なんでさ」
 途端声が尖るのを慌てて言葉を継いで宥める。
「だってこんなギザギザのままの爪だと僕の背中が痛くてたまらないから」
「なんで?」
 きょとんと兵部が目を見開くのを見て、気づいてなかったのだと初めて知る。てっきりわざとやってるのかと思っていたのに、そうではないと判って説明をしてやる事にした。
「お前、夢中になってくると僕の背中に縋りついて爪立ててくるの、気づいてなかったのか?」
「…………っ、」
 と、皆本は息を飲むような兵部の反応に顔を上げ、そして首を傾げた。見上げた兵部の顔は真っ赤だったのだ。
「なんでこのくらいの事で照れるんだ?」
 さっきまであけすけにセックスだの身体の相性がどうのと言っていたくせに、今この瞬間は、まるで初めて手を握られた少女のような反応にこっちの方が驚く。
「兵部?」
 首を傾げて見やると、ぱくぱくと口だけを開閉させた後、ようやく音声が出てきた。
「……き、君はっ、もっとTPOを弁えて物を言えよっ」
「TPO?」
 兵部の口からこんな単語が出てくるなんて、正直笑える。それに彼の認識はどうやら間違っているようだ。だって。
「爪を整えるなら、お前を抱く前じゃないと意味ないじゃないか」
 これは当然の指摘だと思うのに、兵部の態度は違った。小作りの綺麗な白い顔を更に赤くしたりそうかと思うと青くしたり、なにやらひとしきり憤激した後。
「わ……判った、」
 おもむろに兵部が頷いて、そしてひどく凶悪な顔をした。
「ひょ、兵部っ」
 ……嫌な予感。と思った皆本は正しかった。皆本の身体は一瞬の浮遊感の後、ベッドの上に落下していたからだ。
 もちろんその上に兵部が跨るように見下ろしていて、その手が伸びるとあっという間に服を剥がされてしまって目を白黒させる皆本に、彼は挑むような眼をして、言った。
「君の大事な背中に傷つけないですむように、今日は騎乗位でするから大丈夫だから」
「そういう事を言ってるんじゃ……うわっ、」
 ない、までは言えなかった。身を屈めた兵部から、まるで噛みつくような激しいキスが与えられて口を塞がれたからだ。
 もう何も言うなとばかりに、そしてこれしかいらないと言わんばかりに。
 どっちの意味が強かったのかは、おそらく彼にしか判らない。
 だから皆本に出来たのは、そのキスごと兵部を抱きとめる事くらいだった。

■ □ ■

 ――目が覚めるともう腕の中には細い身体はなかった。
 別に寝起きが悪い方ではないし、腕の中の気配が出ていく動きくらい気付けそうなものなのに、いつも皆本の目が覚めると彼の姿はない。まだシーツには彼の分の体温が残っているのに。
「兵部……」
 多分それが兵部の意思なのだろう。彼は催眠能力を持っているのだから。
 皆本がどんなに望んでも、帰る姿を見送る事さえできない。
 それはまるで、行くなと皆本に言われるのを恐れているかのように思える。その瞬間、きっと微かに揺れてしまう瞳を見られたくないから。
 ……そんな淡い幻想をつい抱いてしまうのは、まだ手に兵部の髪の感触が残っているからだ。
「……くそ、」
 宣言通り、皆本の腰に跨る形で自ら皆本を受け入れた兵部の熱に浮かされたような甘い喘ぎ声がまだ耳に残っている。
 皆本を奥まで銜えこみ、貪欲に自ら腰を揺らしながら、最後に背中を仰け反らせて達した時の恍惚とした表情とか、目の端から一筋零れた涙とか。
 そういう感触だけを残して、だけど兵部は他の何も置いていかない。部屋にさえプロテクトを掛けて、三人の子供たちにこの密会がばれる事のないようにして、まるで兵部という存在なんか始めからなかったかのように思えるほど。
 それは正しい。チルドレンにも、バベルの他の誰にもこの関係を知られるわけにはいかないのだから。
 でも。
「……淋しいって思ってしまうのって、間違ってるのか?」
 呟いても答えはないのだけれど。
 溜め息をついて、そうしてもう一度ベッドの上に身を横たえたところで、ふと胸のあたりの細い朱線に気付いた。
「これ……」
 一本だけ縦に走る短いそれは快感に浮かされた兵部が無意識に残した尖った爪の痕だ。
 皆本は苦笑した。
 あれほど傷なんかつけないと豪語したくせに。
「口ほどじゃないじゃないか、……兵部」
 誰かに見られたら困るけど愛しいそれを指で撫でて、そうして皆本は深く息をついた。



お題その二ですが、最初に導入部を考え付いたのでいそいそ書いてみました。
なんか、実際に爪を噛んでるシーンがないけど気にしないでいただけると幸いです;;;
皆本×兵部の兵部は皆本が超好きですね……。そして皆本は基本天然だと思ってます。
兵部は皆本が思うよりずっと皆本の事を好きなのですが、天然相手だから大変そう(笑)。
あ、チルを護衛してるのは当然パンドラ三幹部です。薫ちゃんは真木担当、葵ちゃんは紅葉担当でした。

お題ありがとうございました!>Nさんv