ささやかな日々

 
「京介!」
 そろそろと逃げ出そうとしたところで背後から掛かった声にぎくりと足が止まった。リンと鈴が鳴るような声は本当は耳に心地よいはずなのだけれど、この状況では別だ。短く呼ばれた名前の端さえ舌が回ってない状態では。
「ぬぁに逃げてるのよ、あなたも飲みなさい!」
「……もうやめておいた方がいいんじゃないのかな」
 控えめな発言は当然のごとく無視された。あるいは聞こえていないのかもしれない。超常能力だけでなく、体術も頭脳も、大体の事には強い彼女だが、酒にはめっぽう弱い。最初の盃を空けた瞬間から既に酔っ払っていた(酔うとかいうかわいいものじゃない)彼女は、今はふわふわと宙に浮いて兵部を見下ろしている。
「ちゃぁんとこっち来て座りなさいよ」
「そうだそうだ、せっかくだからお前も飲め、」
 兵部を手招く不二子の言葉に乗る形でがははと笑ったのは一人の男だ。
 長身の多い部隊の中でも群を抜いて大柄で、よく扉をくぐる際に頭をぶつけている彼は、時に兵部を肩に乗せてくれる――部隊に入ったばかりの小さかった頃ならともかく、もうそういう歳じゃないと言っても――気のいい男だ。念動力者だから、気は優しくて力持ち、を地でいっている事になる。
「でも」
 その彼は、今日は少々絡み酒の様相を呈している。ドアの前から念動力でぐいぐいと引っ張られて兵部は閉口した。振り切ろうと思えば出来なくはない。きちんと測定した事はないが兵部の方が力は上だ。
 それが出来ないのは、この酒盛りの理由を知っているからだ。
「俺の実家の最後の酒が飲めないってのか?」
「最後って……」
 酔いの中に覗いた言葉の重さに兵部は眉を寄せた。
 男の実家は東北の造り酒屋だ。……否、造り酒屋だった。長男と次男は戦死して、三男である男は今ここ――超能部隊の駐屯地が置かれている沖縄の島でどっかりと床に胡坐をかいている。
 最後の三男に超常能力が認められ、特殊部隊に組み込まれた事で実家としては後継者がいなくなったに等しく、米も満足に手に入らない上に酒など飲んでいるような時勢でないからとやむなく廃業になったのだという。
 その造り酒屋の最後の酒が届いたのが数日前で、戦闘がなかった今夜ようやく栓が抜かれたのだ。
 一升瓶を大事そうに手にしている男の横顔には酔いに紛らせきれてない寂しさが覗いている。不二子も、おそらくそれを感じているからいつも以上に酔いっぷりに磨きが掛かっているのだろう。
「……ああもう、わかったよ」
 兵部は大きく溜め息をつくと、覚悟を決めて不二子の傍らに腰を下ろした。

 半時間もすると男の抱えていた一升瓶はあっという間に空になってしまった。
 が、もちろん一度始まった酒盛りはそんなに簡単に終わるわけもない。こういう時も物静かに、勧められる盃だけ傾けていた隊長が退席したのをきっかけに、程よく酔った有志が厨房へ忍び込んで(この面子ではお茶の子さいさいだ)料理用の日本酒とつまみを首尾よく調達し、そのまま二次会へと突入する。
 それから更に一時間を付き合ったところで一番最初に音をあげたのは兵部だった。
「……頭痛い」
「あーら、京介ったら男のくせにだらしないわねぇ」
 こめかみを押さえて低く呻く横でケラケラと笑っている三つ年上の少女の顔もほんわりと赤く、かなり酔っているのは丸判りだ。それでも彼女の元気具合に変わりはなく、負けた気分の兵部は悔しさに口を尖らせた。
「もう年頃のくせに酒乱ってのも十分はしたないと思うけどな」
「今何か言ったかしら?」
 せめて意趣返しにとぼそりと呟けばずいっと白い顔が寄ってきた。至近距離から兵部を見つめる栗色の瞳は完全に据わっている。
「……なんでもないです」
 幼い頃から沁みついたなにやら(敵性言語ではインプリンティングというらしい)が兵部の髪を左右に振らせた。
 ……が、そのせいで頭痛がもっとひどくなる。兵部はうう、と呻いた。
「……もう寝ていい?」
「何よ、私はまだいけるわよ」
「じゃあ僕の分飲んでいいから」
「あ、そう?悪いわねぇ」
 まだ半分ほど入ったコップを進呈すると途端に不二子はニコニコ顔になった。どうやら一応は満足らしい。
「お礼に、送ってあげる」
「え?」
 どういう意味だと問い返す隙もなく兵部の周囲の空間が捩れた。
「うわ、」
 次の瞬間兵部が浮かんだのは宴会場とは異なる暗い部屋の中央で、空中にぽんと放り出された形の兵部は慌てて念動力でバランスをとった。
「……もう、まったく不二子さんったら……って、あれ?」
「兵部?」
 送られた先が自分の部屋でないと兵部が気づいたのと、よく知った声が掛かったのはほぼ同時だった。
 照明を落とした部屋の隅の椅子に座っていたのはこの超能部隊の隊長だ。いつもはどんなに暑くても襟元のボタンまでしめてきちんと着込んでいる軍服の上を脱いでいて、手の本をパタンと閉じる姿にこれが彼の私室だと気付く。
「急にどうした?」
「た……隊長、」
 慌てて床に下りた兵部はどぎまぎと自分の姿を省みた。酒の匂いはともかく、みっともない格好をしていないだろうか。
「飲み会はもう終わったのか?」
「いえ、まだ皆は……」
「たまには羽目を外すのも必要だからな」
 上官がいなくなったのをこれ幸いと二次会になだれ込んでいるのは男も予想済みらしい。
「それで、兵部はどうしてここに?」
「僕はもう寝ようと思って、そしたら不二子さんが送ってくれるって瞬間移動で僕を飛ばして、でもどうも移動先を間違ったみたいで、その……お邪魔をしてすみません」
「彼女もずいぶんと酔っていたようだからな」
 しどろもどろの兵部の説明でも大体の流れが判ったらしい男がくすりと笑う。
 丸くて厚い眼鏡のせいか、いつもはちょっと怖いくらいの厳しい顔をしている男だが、時に笑うとすごくやわらかい優しい表情になる。彼の優しい眼差しが兵部は大好きだった。
 もっと話していたいが、でもこんな遅い時間に急に(自分の意思ではないとはいえ)現れた部下に隊長が呆れるのではないかと思えば心配で、兵部は慌てて扉へと向かった。
「僕、自分の部屋に戻ります……わっ、」
 と、ちゃんと踏み出したはずの足がぐらついた。
 今まではずっと座ったままだったから気付かなかったが、どうやら思ったより酔っているらしい。つい膝が崩れかけたところで腕が掴まれて支えられた。
「危ないな」
「あ……すみませ、ん」
 大きな手と腕はとりあえず、と兵部を寝台の上に座らせてくれた。
「兵部はまだ子供なのだから、無理をして彼らに付き合う事はないんだぞ」
 笑みを混ぜたその言葉には、それでもきゅっと眉が寄った。
「子供、…じゃないです」
「何だって?すまない、聞こえなかった」
 小さく、控えめな抗議は男の耳までは届かなかったらしい。水差しの水をコップに注いだ男がそれを差し出しながら振り返るのに、兵部は小さく何でもないですと俯いた。
 そんな兵部の不満そうな表情には気付かなかった男は椅子の背にかけていた上着に手を伸ばしながら首を巡らせる。
「部屋まで送っていこう」
「い……、いえっ、一人で大丈夫です」
 思ってもなかった申し出に兵部は大きく目を瞠り、髪を大きく左右に振った。
 隊員の部屋はこことはまったく違う棟で、いくつか階段の上り下りがある。今のふらつき具合では正直ちょっと厳しいかもしれないが、だからと言って上官の手を煩わせるのはあまりにも情けないし恥ずかしすぎる。何よりみっともないと呆れられたくない。
 たとえ這ってでも一人で部屋まで戻ろうと決意したところで。
「それとも、ここに泊まっていくか?」
「え、……」
 提案にびっくりして大きく顔を上げる。と、兵部の反応に驚いたのか、男は困ったように眉根を寄せてすまんと笑った。
「もうそんな歳じゃなかったな」
「そ、そういうわけじゃ」
 男の言葉に、ほとんど反射的に首を大きく振っていた。
 子供じゃないと言いたいけれど(実際、もう子供のつもりなんかない)、でも、この男の傍はいつでも優しくてあたたかくて離れたくないから。
「……隊長、」
 代わりに男を見上げて。
「僕、ここにいてもいいんですか?」
 おずおずと問えばくしゃりと髪をかき混ぜられた。何度も頭を撫でてくれる大きな掌は優しくて気持ちがいい。
「私たちは、家族みたいなものだろう?」
 そんな響きが嬉しくてつい笑えば男の目も微笑んでくれるから。
 今日だけは子供でいいやとか、そんな言い訳を内心にして兵部は寝台に背中を預けた。

 丸くなった兵部にタオルを掛けてくれて、自分はもう少し起きているから、と椅子に腰を戻して本に視線を戻すその横顔を視界の端に入れながら兵部は目を閉じた。
「おやすみなさ…い……」
「お休み、よい夢を」
 低めの優しい声音に促されて、慣れないアルコールで火照った身体はすぐに眠りの中に引き込まれる。
 だから本から顔を上げた男がそれはそれは優しい眼差しで兵部を見つめていたのにも気付かなかった。その唇がそっと、いつもは口にしない名前を形作ったのも。
 翌日目覚めて、男の腕の中にいる事にパニックしてガラスを一枚割ってしまい不二子にさんざんからかわれる羽目になることをまだ知らない兵部にとっては。
 それは、こんな日々がずっと続くと思っていた頃のささやかな幸せの記憶の一つ。




今回出てきたのは記念写真撮影日にお休みした人ってことでよろしくお願いします。本当はメンバーをもっと出したかったのですが、なんせ今出したら完全に捏造なのでまだ躊躇い中です。まぁその内吹っ切れるでしょうけど(笑)。
兵部は部隊の中でも一番年下で念動力の強さも一番で(不二子さんはオールマイティだけど念動力は兵部ほどは強くない)、一番可愛がられているといいなと思ってます。そしてもちろん兵部も仲間を慕っているのです。
前の二作がどっちも十一才だったので、今回は十三才の兵部ってことにしたんですが、十三なら本当はもう少し成長しててもいいのかなぁと思いつつ、この時代は素直で無邪気な可愛らしさを愛でたいのでちょっとかなり子供っぽい感じです。

兵部は隊長大好きですが、今のところ隊長とはプラトニックの予定です(笑)。
今はぴちぴちで清い兵部も、その内色々あるんだよね……とか妄想だけは広がってるんですが、あまりにも妄想だからネットで出していいものかどうか迷ってます。
てか、ごめんね、京介くん……(今のうちに謝っておく・笑)。

(どうでもいいけど、超能部隊はオチで落とせないので書いてて辛いです……;;;)