桜の思い出

 


 ガタン、と大きな揺れで兵部京介ははっと目を開けた。
「大丈夫か」
「……隊長、」
 開けた視界の先は車の座席の足元だ。どうやらすっかり眠り込んでいたらしい。大きく揺れた拍子に本当だったら座席から転がり落ちていたところを大きな手と腕が受け止めてくれたのだとそこで気付く。
「あ、ごめんなさい」
 慌てて顔を上げると男の眼差しと目があった。
「大丈夫か?」
「はい」
 受け止めてもらったためどこにもぶつけてはいない。兵部は大きく頷いて見せた。と、丸い眼鏡越しの目が小さく笑う。もう一度座席に座り直したところで異変の理由が判った。運転席の青年が窓の外を見て大きく顔をしかめたからだ。
「申し訳ありません、タイヤがパンクして側溝に入ってしまったようです」
「最近多いな」
「新しいタイヤなんて最近誰も拝んでませんから」
 十二月に開戦して以来、物資は常に不足しているという事だ。
「とりあえず、予備のタイヤに換えます」
「ああ頼む。……それまで出ていようか」
「はい」
 斜めになっている車内に座っているのも落ち着かない。隣の男の促しで兵部はドアを開け、外へでた。
 運転手の言葉通りで、車はタイヤが一つ潰れ、そのせいでスリップしたのがもう片輪が側溝に落ちてしまっていた。先ほど大きく跳ねたのはその時の衝撃だろう。
 傍らに立った男へ兵部は少し踵を浮かせた。とはいっても、まだ兵部の背丈は男の腰ほどの高さしかないから、ひそひそ話をするには距離が遠すぎる。仕方なく体全体を浮かせようとしたところで兵部が話しかけようとしているのに気付いた男が大きく身を屈めてくれた。
「どうした?」
「僕がやりますか?」
「いや、いい」
 斜めに傾いだ車を指して、だが男は首を横に振った。
「お前には側溝から出す事は出来てもタイヤを直す事は出来ないだろう?なら、全部彼に任せよう」
「ならいいですけど……」
 その気になれば車体を側溝から出すどころか、そのまま宙を浮かせて超能部隊のある駐屯地まで帰る事も出来る。
 と、ぽんと肩を叩かれた。宥めるような色合いのそれに目を上げると男は優しい目で兵部を見てくれた。
「昨日の疲れがまだ抜けてないだろう?」
「……でも」
 昨日は本営の方で任務があったのだ。超能部隊はまだ発足してそれほど経っていない。新設立であるが故に周囲の障害が多く、一人の超常能力者がどれだけ大きな戦力になるか、時にそれを求める者の前で証明してみせないとならない。
 『お披露目』と言われているそれに兵部が呼ばれる事は多い。
超常能力を知らない者にその威力を見せるには念動能力が一番判りやすいからだ。
 演習所に集まった高官たちは、まだ子供の兵部が一人で立つのを見ると皆初めは胡乱げな目を向ける。
 だが兵部が放たれる小銃の銃弾を弾き返し、数メートル先の塹壕の中にいる兵士を引きずり出して銃を引き剥がして武装を解除させ、更に数メートル先の武装ジープを手も触れずに転覆させるに至っては、彼らは自分の目を信じるしかない事を思い知るのだ。
 こんな茶番劇、言葉は丁寧でも結局は見世物扱いである事は兵部も判っている。だがこれが部隊のために必要で、最終的には超常能力者のためになると判っているから我慢しているのだ。
「無理しなくていい」
 確かに昨日能力をフルに使った身体はまだ少し重い。
 本当は車の振動が嫌いで気分が悪くなる時もあるのに今日に限って眠ってしまったのもそのせいだろう。
「……はい」
 宥めるような優しい言葉に兵部は肩から力を抜いた。
「そうだな、その代り……」
 言い掛けた男がふと空を振り仰ぐ。兵部も慌ててその視線を追った。空は青く、新緑が目に鮮やかだ。と、その緑の間に何か白いものが見えた気がして視線をさまよわせている間に男は運転役の兵へと向き直っていた。
「修理にどのくらいかかる?」
「おそらく、半時間ほどかと……」
 トランクから道具箱を取り出しながらの返事に男は小さく頷くとくるりと踵を返した。
「なら、時間潰しに少し歩いてこよう。少尉も来なさい」
「はい」
 隊長は他人の前では兵部を階級で呼ぶ。
 それは兵部が見た目通りのただの子供ではないと周囲に知らせるためなのだそうだ。確かに、兵部が尉官だと判ると大体の場合相手の態度は変わる。一瞬ぎょっとして、それから今度は信じがたいものを見る目で兵部を盗み見るのだ。
「……すまないな、周囲に畏怖されるのも不本意だろうが、その方が余計ないざこざは少ないから」
 と、男が急にそんな事を言った。兵部はきょとんとして、次に目を瞬かせた。何も口にしては言ってないのに。
「嫌かな?」
「いいえ、全然」
 兵部の反応をどう思ったのか、少し心配そうな顔をして見下ろしてくる男に兵部は黒髪を左右に揺らした。
 軍では階級は大きな力を持つ。最初は兵部を見た目通りの子供だと思い込んだ連中に取り囲まれた事もあったが、そういうのも最近はずいぶん減ってきた。超能部隊が正式に発足し、兵部の肩に星が付いてからだ。
 ……それに。
「全然平気です」
 それに、この男に口にされるならどんな響きでも嬉しい。そう言う代わりに兵部は首を振って男の隣を歩いた。少し誇らしげに。


 ――少し歩くと言った男が向かったのは傍の小さな山だった。
 見た目はそう大きな山ではないが、それなりに傾斜はある。長身の上官には普通の道でも、まだ子供の兵部には角度はきつく、気を抜くと丈の長い草に足を取られそうになる。
「あ、」
 ずるっと足が滑って前のめりに転びかけてしまった。咄嗟にぽんと宙へ浮く。と、数歩を先に行っていた男が振り返った。
「滑ったのか?」
「大丈夫です」
 一応これでも帝国軍人なのに、だるくて足が上手く動かなかったなんて言えなくて兵部は首を大きく振った。と、隊長が足元と兵部を交互に見て、そして小さく頷くと。
「おいで、兵部」
 言いながら隊長の手が差し出される。宙に浮いたままでおずおずと自分の手を大きな掌の上に乗せると優しく手が握られ、そして大きく引っ張られる。
「……た、隊長?」
「これなら大丈夫だろう?」
 その背に乗せられたのだと判って兵部は大きな目を更に瞠った。
 軍では階級が大きな意味を持つ。それで言えば幾つも階級の違う上官に背負われているという今の状況はまずいはずなのに。
「気にする事はない」
 と、兵部の重さなど気にする様子もないままに、足早に山道を進む男が言う。こっちは何も言っていないのに。
「兵部は私の気紛れに付き合ってくれてるのだろう?このくらい何でもないさ」
「隊長は、時々精神感応能力者みたいですね」
「私がか?」
 思わず呟けばくすりと笑うのが聞こえた。
「超常能力者でなくとも兵部の考えている事くらいは判るさ」
「そう……ですか?」
 小さい頃は、周囲には何を考えているか判らない、気味悪いとさんざん言われたのに。
 ついそう口にすれば、男の歩みが一瞬止まった。
「判るさ。……少なくともある程度は解っているつもりだ」
 だが、と男は溜め息混じりに呟く。
「私も同じ超常能力者だったら、もっと君たちの気持ちを理解できるだろうにな」
「……でも僕は、」
 男の言葉に兵部は小さく首を振った。
 兵部の記憶の中では今までこうしてくれた普通人は誰もいなかった。能力を見せると誰もが化け物を見るような視線を向けるのに、この男だけは兵部を見て優しく笑ってくれる。
 超能部隊に入って不二子以外の同じ能力を持った仲間――それも複数――に会えたのは嬉しいし安心する。でも、普通人のこの男に理解して受け入れてもらえたのはもっと嬉しい事だ。
「僕は、隊長が隊長でよかったです」
 小さく小さく呟くと、同じくらいに小さい声でありがとうと返ってくる。優しい響きに兵部は男の背中に顔を埋めた。きっと真っ赤になっているであろう顔を誰にも見られたくなかった。


「兵部」
 ふと呼ばれて兵部は目を開けた。
 大きな背中で揺られている内にいつの間にか眠ってしまっていたらしい。背負われていたはずが、気づけば男の膝の上にいた。
「あ……、すみません」
「構わんよ」
 慌てて膝から降りようとして、大きな手に押しとどめられる。
「見てごらん、ここいらでは今年最後の桜だ」
 言われて慌てて上を見上げる。と、頭上は薄紅の大きな枝で覆われていた。枝垂れた枝が幾重も重なり、空が見えないほどだ。
 最後の言葉通りか、もう満開を少し過ぎた枝からは次から次へと花びらが舞い落ちている。
「綺麗だろう」
「はい」
 今までもこの木を見た事はあった。
 二年前に引き取られた先の蕾見家の庭にももっと大きいのがあって、去年はそこの下で花見とかいうものをやらされた。男子用の服がないからと、不二子のお下がりの着物を着させられて大いに閉口した覚えがある。
 だが桜という木を美しいと思ったのは今が初めてだ。
「桜は春を知らせるために咲き、あっという間に散ってしまう」
 美しくも儚い花だ。
「日本人は特にこの花が好きらしい」
「はい」
「人間とは、同じ人間を殺した赤い手をしていながらも、こうやって花を美しいと感じたりもする。……不思議なものだな」
「……はい」
 一連の男の言葉の意味は兵部にはまだよく判らない。でもそうは言えなくて曖昧に頷くと頭上で小さく笑う気配がした。
「昨日のお披露目だが」
 と、急に話が変わる。
「陸軍の将軍閣下が何人も来ていたんだよ」
「……僕、うまく出来てましたか?」
 上層部が来ていたと聞いて兵部は少し不安になった。いつも通りにソツなくこなしたつもりだったが、何か足りなかったりして期待を損なってしまっただろうか。
「隊長?」
 返事の代わりに与えられたのは大きな掌だった。無言のままでくしゃりと髪を掻き回されて、兵部は困惑に目を瞬かせた。
 だが答は言葉としては戻らなくても、優しい掌からは、少なくともこの男は失望していないようだと判ってほっとする。
「……もう少しすると、超能部隊にも任務が与えられるだろう」
 しばらくして男は言葉を紡いだ。
「君たちに、この国のため戦ってもらう事になる」
「はい」
 正直言えば、国というものをあまり意識した事はない。
 軍に入ったのも不二子が先にそれを決めたからで、兵部はただ置いていかれたくなかっただけだ。蕾見の家に入るまで、兵部にとって世界は優しいものではなかったし、心を許せるのは不二子だけだったから。
 だが超能部隊に入って、兵部の世界は少しだけ大きさを変えた。
「この国を守ってくれるか?」
「……はい、」
 兵部は懸命に頷いた。
 まだ国とか守るべき未来とか、そういうものは判らない。でも他ならぬ彼がそう言うのなら、それは正しい事に決まっている。
 頑張りますから、と言えば髪を撫でてくれる掌の温もりが嬉しかった、ただそれだけが最初の動機だったのかもしれない。


■ □ ■


「お帰りなさい」
 超能部隊の駐屯地の入り口に一人の少女が立っていた。正確には、宙に浮いていた。
 まだせいぜい十五歳前後のこちらも兵士としては若すぎるが、一概に少女と言うには大人びた顔立ちと目をした彼女が数年もすれば周囲の眼差しを惹きつける事は間違いないだろう。
「ただいま、不二子さん」
 停まった車から先に降りた兵部が少女の傍へとぽんと飛ぶ。
 何の変哲もない駐屯地であっても、二人が並ぶとその空間だけ雰囲気が変わる。
 常は無口でどこか人を寄せ付けない雰囲気を漂わせつつも、笑うとやわらかい甘さを纏う兵部京介が百合の花を思い起こさせるのに対し、栗色の長い髪を背中に流し、常に明るい笑みを浮かべた華やかな顔立ちの蕾見不二子は喩えるなら大輪の薔薇の花だ。
 この国が去年の年末に宣戦布告した敵国の人間なら、美しいがまだ幼さを残した二人が仲良く顔を寄せる光景を天使と喩えるかもしれない。彼らの突出した強さの超常能力を知らなければ。
「疲れた?大変だった?怪我なんかしてない?」
「いつも通りだったよ、平気」
 言葉通りと示すためにくるりと回ってみせる。どこにも問題ないと見てとって視線を緩めた不二子が違う事に気付く。
「あら、髪に何か付いてるわよ」
「え……?」
 きょとんとしたところで指先がさらりと髪を撫でていった。
「花びらね……これ桜?」
 指先が微かな高音を発した。高い周波数を伴ったそれは接触精神感応能力の発動を示す。
 と、すぐに白い顔が上がった。その赤い口元には何かを面白がるような笑みを浮かべている。
「途中で隊長とデートしてきたの?」
「でーと……?」
 聞き慣れない言葉を口の中で転がして、しばらくして言葉の意味に思い当たる。……と、兵部はぱっと顔を赤くした。
「……内緒!」
 言うなり身を翻して建物の中に駆け込んで――逃げ込んでしまった小さな背中を見送って、置いていかれた形となった不二子はぷぅと頬を膨らませた。
「もう、だんだん生意気になってきたわね」
「成長しているわけだから、歓迎しないと」
「それもそうだけど、あたくしにナマイキなのは気に入らないの!……って、お帰りなさい」
 ちょうど軍用車から降りてきた男へ向き直って一礼する。
「京介とどこへ?」
「……兵部がああ言っているのなら、『内緒』だな」
「それは構わないけど、」
 当然やり取りの一部始終を見ていた男が笑いを堪えた表情で答えるのを不二子はやや視線をきつくして見上げた。
「本営に行く時は私も連れてって、ってお願いしたのに」
「目を離したつもりはないが?」
「あの子が傷つくのは、許さないの」
 ほんの数ヶ月前、本営を一人で動いていた兵部が男たちに襲われかけたのを二人は知っている。当の本人はそんな出来事をすっかり忘れてしまっているようだが、保護者の立場の二人としてはそう簡単に忘れられるものではない。
 兵部の思念波の爆発的な高まりに不二子が気付かなければきっと彼らは殺されていただろう。愚かだが無知なだけの兵士達と、追い詰められると能力を暴発させ、禁忌を禁忌と踏みとどまれなくなる兵部の両方を守るためにも用心は必要なのだ。
「私が気をつけているよ、安心したまえ」
「……そうね」
 少し気遣わしげに兵部の去っていった方向を見やり、そして少女はもう一度上官を見上げた。
「あの子、あなたの事が大好きみたいだものね」
 直截な言葉に男が小さく笑う。
「少しは心を開いてもらえたと考えていいのかな」
「……そうね」
 少し口が尖ったのは、自分にしか懐かなかった大事な弟が手元から離れていく事に対する淋しさからだという自覚はある。まだ大人になれてない自分が悔しくて不二子は少し会話を変えた。
「そういえば、隊長には妹さんがいるんですって?」
「……ああ」
「今日父から聞いたの」
 陸軍参謀である父親は時に上層部しか知らない情報をもたらしてくれる。例えば、昨日の将軍達の視察の後で超能部隊の実戦投入が決まった事とかだ。その中に混ざっていたのが部隊隊長であるこの男の履歴だった。彼に年の離れた妹がいると聞いて、だから子供な兵部の扱いがうまいのかと思わず納得したのだ。
「正確には、いた……だな」
 だが男は小さく首を振った。
「身体が弱くて、ずいぶん前に死んでしまったのでね」
「あ、……ごめんなさい」
「構わないよ、もうずっと昔の事だ」
 言葉とは別に少しぎこちない笑みに男の中ではまだ完全には終わっていない事だと悟る。傷つけてしまっただろうか。
「さて、そろそろ中へ戻らないか?」
 不用意に踏み込んでしまった事を何と謝ろうと思案する中で先に男から助け舟が出された。その顔にはもう苦さはなく、代わりに笑いを堪えたような色があった。その表情のままさりげなく男が背後を示す。示された先に視線を向ければ、柱の影から黒髪がちらちらと出たり入ったりを繰り返しているのに気付いた。
「見てごらん、さっきからずっと私達を待ってるようだよ」
「……バカね、もぅ」
 思わず吹き出した。かつては人の悪意に怯えていた三つ下の弟にまだ残っていてくれた無邪気で純粋で幼い部分が愛おしい。
 これを守るためならなんだって出来る、そう思えるくらいに。
 そしてそれは傍らの男も同じだと知っている。
「じゃあ戻りましょうか」
「賛成だな」
 共犯者の眼差しで二人で小さく笑いあって、歩き出す。
 ――その時は確かに彼と気持ちは同じだったはずなのに。
 どこから歯車がずれたのか、あるいは最初から合っていなかったのか、……今となってはもう判らない。
 きっと、誰にもその答は見えないのだ。


■ □ ■


「――少佐」
「……なに?」
 呼び掛けに兵部はふと我に返って顔を上げた。
 声の方へ視線を向けると見慣れた部下の姿があった。眉間に皺を刻んでどこか心配そうな目もいつもの見慣れたものだ。
「急に、どうされたんです?」
「どうって……」
 それで思い出した。
 近くを移動中に薄紅に染まる大木を見かけて懐かしい記憶が脳裏をかすめ、ふと気付いたらこの桜の下にいたのだ。
 無意識に瞬間移動していたらしい。
 どうやら急に消えた自分を追ってここを懸命に探し出したらしい部下の額には汗が浮いている。
 こちらを気遣う視線はいつもは心地よいが(自分の厄介な性格については多少なりとも自覚はある)、今日はどうにも重く感じて兵部は顔を顰めた。
「……なんでもないよ」
 視線を振り切りたくて兵部は背を向けた。
「先に行ってて。すぐに戻るから」
「ですが、」
「もう一度言った方がいい?」
「……かしこまりました」
 不機嫌さを隠さず声に強さを込めればようやく気配が遠ざかる。
 そっと窺えば少し落ちた肩の角度がその心情を如実に語っていた。
 人一倍、ではきかないほど振れ幅の大きいテンションのせいで常に部下に気遣わせている事は判ってはいる。そしていつもはそれを心地よく思えるのに、今日に限ってどうしてもそれを鬱陶しく思ってしまうのは、この場所のせいだろう。
 だって。
 だってここは、今年最後の桜の咲く場所だから。

 ――少しの間兵部はそこに佇んでいた。
 あの日と同じように薄紅の花びらはひらひらと音もなく舞い降りて地面を淡く染めていく。
 あの日から何十年も経っているはずなのに、その光景はあの時男の膝の上で大きな掌の優しさを感じながら見たものと変わらない。自分の世界は大きく変わってしまったというのに。
「……あなたはここで見てればいい」
 兵部はそっと囁いた。
「僕はあなたの視た未来とは違う未来を作ってみせる」
 声はすぐに空気に溶けてしまう。
 だがきっと届いていると知っている。彼はすぐ傍にいる。この桜を好きだと言った彼だから。
「……ただし、あなたが望んだものとも違うけど」
 だから、と兵部は呟いた。
「あなたは、ずっとここで僕を思っていて」
 僕は。
「あなたの視た未来の先を行くから」
 そう言うと兵部は桜の幾重にも重なる枝垂れた枝の下を抜けた。
 絶対に振り返らない。
 たとえ薄紅に染まったその枝が兵部を引き止めるように揺れたとしても、小さな自分が桜の下で無邪気に笑っているのが見えても、絶対に。
 感傷という名の懐かしい思い出を振り切って、兵部は現実へと大きく一歩を踏み出した。



08.5月のスパコミに配る予定だったSSです。なんだかただの雰囲気SSですけど。
前日一時間睡眠でどうにか作っていったのですが、面付けをすぱんと間違えて同じページが何個もあるという大失敗をしてしまい、読める代物ではなかったので泣く泣く回収したものです。データ的には完成してたので、もったいないから再利用としてみました。
隊長に何だかへんな設定入ってますが、まぁあまり気になさらず……(笑)。(続き書く事があれば、いつかここの設定は回収します)