きっかけ

 
「馬鹿ね」
 そんな言葉とともに冷たい布をその頬に当てる。
 痛みを予期してか幾分肩が強張ったが、慎重に汚れを拭う手に安心したのか、やがて細い身体から緊張がとれた。椅子の背にそっと肩が寄りかかる。
「いくら本営とは言っても、一人で歩いちゃだめよ」
「……うん、」
 見下ろす先の少年は悄然とうな垂れたままだ。
 いつにも増して言葉の少ない理由は判る気がして、蕾見不二子は小さく溜め息をついた。
 お世辞にも食糧事情の良いとは言えない中で育ち、蕾見家に引き取られてからようやく背が伸びだしたとは言え、まだ同年代よりは小柄で細い。数人の大柄な男たちにとり囲まれて力任せに殴る蹴るをされれば、その身体は軽く吹き飛んだだろう。まだこの子供には護身術だって教えていないのに。
 男たちによほど手ひどく扱われたのか、軍服の釦は取れて袷が開き、中のシャツは大きく裂けていた。少年兵用としても、彼にはまだ大きい軍服の袖からわずかに覗く手首にはくっきりと手形が残っていた。彼よりもずっと大きい大人の手だ。
 超能力者というだけで向ける視線の色も変える男たちがよってたかってまだ子供の範疇の少年に一体何をしようとしたのか。
 ……何となく想像はつく。
 だがそこにはあえて触れない。最近になってようやく芽生えたはじめた彼の自尊心を傷つけるのは避けたい。
 代わりに、少し迷ってから不二子は声の調子をいつもの軽いものに変えた。
「隊長からの命令で、罰として二日間の営巣入りですって」
「え」
 不二子の言葉にびっくりしたように大きな目が見開かれる。
「でも僕は……」
「貴重な戦力を病院送りにしてしまったのだから、仕方ないわ」
 何も悪い事はしていないのに、と言いたげな目に諭すように言葉をかぶせる。
「私たちの能力は、今は敵国にしか向けてはいけないのよ」
「……でも、」
「もちろん、隊長はちゃんと判ってるわ」
 悔しげに口を尖らせる少年に不二子は続けた。
「あなたが軽い気持ちで念動力を使ったわけじゃないって」
 あの現場を見た者なら誰にでも判る。超能力者だからといって万能ではない。多勢に無勢で、しかも腕力では到底敵わない相手に、いったいどうやって自分の身を守ればいいのだ。
「それでも、超能部隊の人間が超能力で問題を起こせば、周囲は決して良くは思わないわ」
 その思念波の爆発的な高まりに不二子が気づかなかったら、男たちの命はなかっただろう。彼の念動力の強度は、超能部隊の中でも一、二を争うほどに成長しているのだから。
 そしてこれだけの強い力を持つ存在がどう思われるか、彼女には判っていた。
「だから、処分を下さないわけにはいかないの」
 事の善悪はともかく、超能部隊の方で処分を出さなければ本営の方に少年の身柄を拘束される恐れがあった。もしそうなればその身に何が起こるかは、想像に難くない。
 それを避けるためには必要ない処分が必要だった。
「隊長のお考えは解るわよね?」
「……うん、」
 少年はしばらくして顔を上げて頷いた。
「わかった、不二子さん」
「こら」
 黒い瞳をきらめかせる年下の少年の頭をこつんと叩く。
「不二子おねーさまと呼びなさいってば」
「いやだよ、不二子さんは不二子さんだもの」
「……もう、」
 綺麗で可愛らしくて従順な弟がほしかったのに、と不二子は呟き、それに関しては少年は聞こえない振りをした。彼にとってはどれも不本意な形容詞らしい。
「じゃあ、営巣入ってきちゃうね」
「ちょ……、……ずいぶん気が早いわね」
 すっかり気を取り直したらしく、立ち上がるなり部屋を走って出て行ってしまう少年に不二子はやれやれと溜め息をついた。
 もっとも、営巣と言っても、この超能部隊の宿舎に設置されているものは少し狭いだけの普通の部屋だ。超能力対抗措置が置かれていて、超能力を使う事が出来ないだけ、に近い。
 元から少しはみ出した者の多い超能部隊の隊員で営倉に入った事がないのはおそらく不二子くらいで(しかもその理由は彼女にその理由がない、のではなく証拠をつかませないから、である)、他の隊員にとっては気軽な反省室、位の感覚だ。そういう意味では少年も例に漏れない(それどころか要領のいい不二子の身代わりに入る事もあった)わけで、だからこそ進んで出頭したのだ。
「……まったく、心配させるんだから」
 元気な足音がすっかり聞こえなくなったところで不二子はくすりと笑った。
 あの時拾わなければきっとすぐに死んでいたはずで、蕾見の家に来た時は感情を外に出す事も出来なかった子供が今は怒りや喜びを素直に口に出来るようになった。
 だからこれでよかったのだ、と思う。
 蕾見家にいれば有事には兵器として使われると予測できていたけれども、それでもこれでよかったのだ。
 この先の未来に何が起こったとしても、自分の判断は間違っていない。後悔などしない。どんな人間でも――超能力者でも普通人でも、未来だけを見て生きる事は出来ない。
 今を生きなければ未来などその先にはないのだから。
「……さてと、あとしなきゃいけないのは連中の始末ね」
 そして誰もいなくなった部屋で、華族の出自であり陸軍参謀長の一人娘でもある蕾見不二子はどこか大人びた表情でそう呟いた。
 少年より三つしか上でない彼女もまだ本当なら少女と言うべき歳だが、時代がそうさせてはくれない。
「簡単だわ」
 と、彼女は呟いて笑った。大人の顔で。
 彼女にはそれが可能な能力と立場を持っている。
「あたくしの弟を傷つけた報いは受けてもらうんだから」
 心配だったのは、少年の心の傷だけだった。だがそれももう心配はいらないようだ。
「あの子の事は隊長に任せておけばいいみたいだし」
 しばらくの間はゆっくりと着実に動いていけばいいようだった。



 ――兵部京介という、あと数年もしたら周りの女性が放っておかない事が保証されているような容姿とずば抜けて強い超度の能力を持つ存在の中で一番印象的なのはその目だ。
 切れ長の大きな黒い瞳は光によって猫のように表情を変える。
 無邪気に煌くかと思えば、時に氷のように冷たく光る。
 ……先ほどもそうだった。
 波動の元の倉庫に瞬間移動で到着した時、既に男たちはぼろぼろになって床に倒れていて、彼らの無残な姿を足元にして立つ少年の姿に思わず固まってしまった不二子よりも、一緒に連れて来た彼らの隊長の方が先に反応した。
「兵部!」
 怒りに我を忘れている少年に駆け寄ったのは、普通の人間である彼の方が先だった。
「……たいちょう……?」
 ぼんやりと呟いて見上げてくるその目を見つめて男が言う。
「やめなさい」
「だってこいつらが……、」
 泣きそうな顔で子供が言い募る。許せない、と。
「大丈夫だから」
 それを遮って男は言葉をかぶせた。
 今の少年はその怒りの波動だけで人間を肉塊に変えられる。それを知っていながら男は数歩を進み、少年に手を差し出す。
「お前のことはちゃんと私が解っているから、もうやめるんだ」
「隊長……」
 と、不意に力の奔流が途切れた。
 それを感じて不二子がはっと見ればその瞼が閉じるところだった。そのままかくんと少年の膝が折れ、床のぎりぎり手前で男はその身体を抱きとめた。
「……何があった?」
「待って」
 緊張が切れたのか、意識を失っている少年を抱きかかえた男の横からそっと手に触れてみれば、まだ少年の表面に残っている怒りの波動を読む事が出来た。
 そんな事ない、と小さな子供が叫んでいる。泣き出しそうな気持ちを懸命に抑えて、それだけが唯一の誇りのように。
『隊長は、ここにいていいって僕に言ってくれたんだから!』
 不二子はその手を離した。これ以上は読んではいけない領域だ。
「……この子、隊長を悪く言われて怒ったみたい」
「そう……か」
 丸い眼鏡の奥の目が瞬いて、軍人然とした顔に少しだけ表情が生まれた。口元が綻んで見えるのは気のせいではないはずだ。
「……それでその、……怪我、…はしていないのだろうか?」
「大丈夫」
 少年の軍服の乱れが何を意味するか、彼にも判ったのだろう。
 とても言いにくそうに口にして、不二子の返答にほっと安堵する男の様子に微笑が漏れる。
「ありがとう」
「いや」
 軍人数人を一瞬で倒してしまった力を見ても引く事もなく、それどころか少年の身体を気遣ってくれたのが嬉しくてついそんな単語を口にしてしまえば、男は我に返ったように口元を引き結んで首を小さく振って見せた。
「君たちを守るのが私の役目なだけだ」
「それでも嬉しいわ」
 ただ単にそれが任務だと言う男の言葉の裏にあるものなんて読む必要もなくて、にっこりと笑えば少し困ったように視線を揺らした男の歩みが急に速くなる。
 置いていかれそうになって不二子も慌てて足を速めた。
 まるでスキップのように。


 ――これが、不二子がこの普通人の軍人を信頼したきっかけの一つだったかもしれない。誰も気づく事はなかったけれど。
 でもそして。
 これが近い未来の破滅のきっかけになった事も、誰も気づく事はなかったのだ。





超能部隊も好きです。
と主張してみようと書いてみました。
兵部は蕾見家に子供の頃引き取られて、十歳前後で超能部隊入り。不二子さんは身分もあって部隊最強。隊長に敬意は払ってるけど、でもタメ口……だったらいいなぁという妄想です。
なんか妄想ばっかりっスね……;;;